大丈夫教・・・というと、なんだか響きが怪しげな新興宗教のようであるから、もとのまま『禅』といったほうがカッコいい。
ただしかし、『禅』はカッコいいが、とっつきにくく、人をして拒絶する厳しさが突出するばかりで、人を寄せ付けない『難』があって
禅が『大丈夫教』を生み出した・・・とは思えにくいが、布袋様の風体を観るかぎり、まぎれもなく『大丈夫』だと思える気にさせてくれる
ところが有り難いではないか。そういえば、鈴木大拙も晩年はまさに好々爺然とした風貌で、それこそが『禅』が『大丈夫教』である証拠であろう。
その昔、仏教は小乗と大乗にわかれ、『悟り』を修行した僧のみに限定する『小乗仏教』と誰もが悟れるとした『大乗仏教』とに分かれて、
その大乗仏教が中国経由で日本に伝えられた意義というのは本当に大きいと思う。
本来誰にも仏性がある!・・・とすれば、『悟り』というより『覚り』であって仏性に覚醒する『覚り』の言葉が多分正しいのだろう。
仏性を覚ったあとの状態こそが『悟り』・・・であることを『文字』が示して『考えるな漢字ろ!』で説明がつく。
私は自己流に『悟り』=『郷里(さとり)』とオヤジ・ギャグ風に提唱しているが、悟りが誰もが持つであろう『郷里』なのであるから
悟ろうが悟るまいが『大丈夫教』なのだと言いたいのだ。自分の郷里である『仏性』から意識をずらさない事だけが肝心なのだと思う。
こんな風にここから、湖に浮かぶ満月を観るのは最期となるであろう。あと3週間で引っ越すことが信じられない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます