やっぱり我が愚脳版『Chat 観自在』は遅い、だいぶ前にインプットしたワード『気合』に対し、今頃になって超重要な情報が出てきた。
時は前ブログ同様、私の医道の師、横田観風先生の無為塾での話になるが、当時先生は寺山但中氏を師として御自身『筆禅道』に励み
住み込みの塾生にも毎朝、新聞紙に大きな筆で下から上へ斜めの一本の棒線を『気を込めて』書くことを日課にしていた。
私も塾生ではあったが、通いであったため残念ながらこの『筆禅道』の『行』には参加できなかったが、吐く息とともに念を込めるように
一線を引く先生や塾生の姿をよく眼にしていたし、塾を訪ねて来た寺山但中師にもお目にかかり、『筆禅道』の源となっている禅僧の
『書』などについてのお話も聞いたように思う。
そういうような事があってか、以来、気合の入っている『書』とそうでない『書』を観分ける眼を養う意識が芽生えたように思う。
そんなある新年会の日に、観風先生から塾生全員に(10人程?)長さ1mをこえる和紙が配られ、新年にふさわしい言葉を書きなさい・・・とのこと。
大筆でこんな大きな紙に『書初め』など私にとって最初で最後であったに違いないが、その時私は何故か『覚悟』・・・と書き、全員の『書』を壁に
並べて品評会になったとき、筆禅道をしている塾生の先輩が『 馬骨の『書』は、気合いが入ってなかなか良い 』と褒めてくれたのを覚えている。
問題は私が選んだ言葉が何故『覚悟』であったのか?であるが、『覚悟』といってもあの当時はまったく『何についての覚悟であるのか』自分でもさっぱり
わからず、ただ我が愚脳に思い浮かんだ言葉が『覚悟』・・・ということであった。
そしてそれは『我が愚脳』がその時すでに『観自在』機能を発揮していたのではないだろうか・・・と、いま私は思っている。
人にとって『覚悟』とは、『間の飛躍』… 此岸から彼岸へ飛躍するあらゆる『覚悟』が『覚悟する』という意志となり、言葉となって表面化するのであろう。
だから、本人にはわけのわからん『覚悟』でも、あらゆる種類の『覚悟』が終には『悟りへの覚悟』へと導かれている、ゆえに『覚悟』なのだと思う。
人は心の声に従って『此岸から彼岸』への『間の飛躍』をしようと旅に出る・・・しかし、いくら旅を重ねても『彼岸』には届かないことに
いつか気づく。私も若き日に、ニューヨークからスイスを基点にポルトガル〜スペイン〜フランス〜ドイツまで来て、予定にしていた北欧に行くのを
やめてしまった。旅にはうんざりしてしまったのだ。地平を彷徨うのと『彼岸への飛躍』とはまったく次元が違うことに気づいたのだと思う。
そのとき、もう一度『禅寺』へいって修行をやり直す『覚悟』がついた。
我が発達障害の娘の小6時の国語の授業にて。「自分自身の目指す方向を漢字2文字で表せ」なる課題が出たことを思い起しました。
未だその種の回答がすぐに出来るほどの成長をして成していなかった娘の長所を捉えた母の私が、すぐさま思い起した言葉が「着実」でした。
発達障害を抱えている身にして、まさに我が娘は「着実」に成長していきました。
この「着実」との言葉を今年30歳を迎える我が娘が今尚、母である私へのSMS返答内で使用してくれている事実に、この娘の母である喜びを謳歌しております。
私事にて、失礼申し上げました。
とても素敵なお話をありがとうございます。
ちょっとしたきっかけで、人の心に刻まれる言葉ってありますよね。ブログを楽しみに拝読しています、よろしく。
我がエッセイ集をお読みいただいております事にも感謝申し上げます。
距離は離れているようですが、今後共「原左都子エッセイ集」への馬骨さんよりのご訪問をお待ち致しております!!