安藤礼二著、『大拙』を読了…というとカッコいいが、数えられないほどの居眠りの末、3ヶ月ほどかかって読み終えた。
この本についての紹介記事を何かで見つけた時は、我が鈴木大拙に関する本がついにでたのか!…という大きい驚きと喜びとで、ためらわずに『ワンクリック』で電子書籍を購入した。もともとは月刊文芸雑誌『群像』に連載したものだそうだが、書きあたりが非常にお硬い研究論文的な文章には全く慣れていないので、骨を折った気がする。
鈴木大拙が書いた禅そのものの本の内容も難解であるが、大拙の思想を年代に沿ってあらゆる角度から検証してゆくこの論文も違った意味で相当面倒くさい本であった。
鈴木大拙に関しては若干知っているつもりなので、船を漕ぎながらでもなんとか読むことが出来たが、大拙について何も知らない人だったら、何が書いてあるがさっぱりわからない本であろう。
この著者によると、最近『鈴木大拙の思想』が良くも悪くも注目を徐々に浴びてきている…とのことで、それがこの本を書く理由となっているらしい。あとがきで『今なぜ大拙か?』という著者自らの問に答えたのがこの本…ということだ。
『今なぜ大拙か?』という問いは、ボクの中では『平常心是道』と同じくらいボクが禅に関心を持った頃からの『問い』であってなにも特別のことはないが、よくよく改めて考えるに、禅が『Zen』となって世界中にその名を知らしめたのは、他ならぬ鈴木大拙であることは、間違いない事実で、その名『Zen』が十分世界中に広まった現在その内容について眼を向けるタイミングというのはいよいよ『今』なのではないか…ということなのだ。
インド人であったダルマさんが中国にきて『禅』を起こした…という事実と、あるいはそれ以上の奇跡的出来事として大拙が禅を西洋社会に浸透させたことは、Aiの研究過程で突き当たるであろう人間学に、そしてAiの発展によって失われるであろう人間性を取り戻すうえで『Zen=禅』の追験は急がれるのだ。
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