当『東洋自分なり研究所』において『天上天下唯我独尊』の解明は最重要事項となっている。
この解明が(この世を)『一切皆苦』と喝破してみせた釈尊による解決法の宣言が、『天上天下唯我独尊』であったと確信しているからだ。
今現在世の中で起こっている様々な問題は、政治が悪いからだろう。
何故、政治が悪いのか?・・・それは政治を担う者の心が大人として成熟していないから。
何故、成熟しないのか?・・・心の教育が未熟であるからだろう。
人間の『心』という処に徹底焦点を当て、仏教を育み『禅』にまで成長させてきた仏道は、いま日本で足踏み状態となっている。
仏教関係者は誰もがそう思っていながら、いま一歩を踏み出す解決策を見いだせないでいるのではないか。
『急がば回れ』ではないが、『急がば坐れ』の道場を持つ日本人こそがまず、無心となって仏語『天上天下唯我独尊』を解明する時であろう。
釈尊が生まれたときオギャーと『天上天下唯我独尊』の宣言と、死ぬ間際の説法『自灯明・法灯明』は、釈尊の切実な『教え』であった。
この二つの教えの共通項は禅で言うところの『己事究明』であったろう。
『天上天下唯我独尊』であるが、もし釈尊が本当に自分が最も偉いという意味で『尊い』と思ったならば『天上天下我尊』で良かったであろう。
しかし、釈尊は『唯我独尊』と『唯・独』という語を加えているところがポイントだ。
『唯』というのは『唯一』という条件を表し、『無我の我』という本来の自己に目覚めるという唯一(絶対)条件のもと・・・に
真に『命の尊さ』を実感している他の誰でもない、『我』(無我の)を、『唯』と共に『独』という言葉で強調し、
人に『悟り』の道がある事を見出した釈尊の喜びを最大限に表現している言葉『天上天下唯我独尊』なのだ。
そしてそれはまた、死に際の説法…『自灯明』で再び『己事究明』の最重要である事を釈尊最後の教えとして強調したのだと思う。
いま娑婆では『ジャニー喜多川』問題で持ちきりであるが、いじめによる自殺から政治問題にいたる様々な問題解決に基本となるのが
『無我の我』を掘り下げる『己事究明』による教育なのだ。
いつであったかスイスで観た風景、根本的問題解決の糸口が唯一『己事究明』である事に気づき始めている・・・
むずかしいお話ですね。最近よくそう感じます。
座禅を体験したことがある(私自身はありませんが)というくらいで「無我の我に目覚める」ことは難しいでしょう。
そもそも自力での修行というものに縁遠く、
しかし聞法の機会を得ながら、わからないでいる自分に気づかされ、
そこから思いをわずかであっても深めたいという思いが働いて…、
そしてまた聴いたお話の中で心動かされ、また??… こんな繰り返しなのです。
鈴木大拙のお話の折にも、修行なくして理解できないのかとふと関心を削がれてしまいました。
といっても極小の関心ですけれど。
「いいね」と、ポチポチが安っぽくなって申し訳ないなあと思いつつ・・
で、何度か拝読し直しております。
こうして考えさせていただくことが、きっと出あわせていただいたご縁かもしれません。
思いが去来しているのですね。
「不動の姿勢で、頭を空っぽに」
たとえ10分でも、そうした時間を意識してみたいと思います。
ありがとうございます。