『大雪山系の大量遭難』
北海道大雪山系トムラウシ山周辺での10人死亡の夏山としては史上最大の遭難事故のニュースを聞いて感じたことですが、
自分の責任で山を登るのではなく、深田久弥が選んだ百名山をいくつ登ったかという『アリバイ作り』に近いは愚かな行為で残念で成らない。
今回の遭難者は全員が60代。
参加者でルートを事前に歩いたものはいない。
山岳団体ではなく観光会社のツアー客。
登山なら必ず有る予備日が設定されていない。
もしもの時の退避ルートも無い。
今回は遭難日だけでなく前日も雨が降っていたのでこの時点で下着や靴などの装備を濡らしている。
体力を消耗している入山三日目に一番長いルートが設定されていた。
これだけ条件が揃えば、さらに天候悪化などの悪条件が加われば大量遭難は避けれなかったと思われがちだが、この遭難は十分に避けれた。
あるいは被害を最小限に抑えられていた。
『(下着を濡らす)雨は恐ろしい』
確かに直接身体に纏う下着を濡らす雨は体温低下につながり恐ろしいが、冬山と違い夏に雨が降るのは当たり前である。
冬山の雨は、上高地の奥の横尾をベースにした山岳会の冬季合宿で沢渡から入山した時に霧雨だったが(冬山なので)雨具の用意が無い。
下着を濡らすと後の登攀に差障りが有るので服を全部脱いでセーターにヤッケという珍妙なスタイルで50キロほどの荷揚げを行ったが、動いている間は全く寒くない。
ところが、止まるととんでもなく寒い。
それで仕方なく雨で凍った雪道を休憩なしで予定より早く、ばてばてになって辿り着いた経験がありますが、若かったから無理が出来たのでしょう。
冬季剣岳の大量遭難時でも雪洞に閉じ込められて生死を分けたのも、下着の濡れ具合だった。
生き残った登山者が乾いた下着を用意していた訳ではなく、装備は変わらなかったが濡れた下着を裸になって何回も繰り返し絞って着て生還している。
装備の有る無しよりも装備の使い方に問題が有る場合が多く、疲労凍死した遭難者のザックの中に乾いた衣服が残されていた等の例は案外と多い。
『トリアージ(選別)』
10人が死亡した大雪のツアー登山大量遭難では午前10時半には早くも一人が動けなくなっている。
(この時既に登山パーテーは遭難状態であったと解釈できる)
この場合には、其れ以外の(同じ様な危険な状態の)大勢の人達の命を救うために、倒れた人をサブリーダーなり誰か適当な人を付き添わせて、それ以外のメンバーを一刻もこの現場から早く退避させるべきであった。
しかし、何の指示も無いままに暴風雨の中で1時間半も(何もする事も無く)全員がその場に止まって待っていた。
其の後に動ける比較的元気な者達は元の非難小屋に退避では無く、予定どうりトムラウシ温泉に下山しようとした。
この判断の間違いと遅れが大量遭難に繋がっている。
『阪神大震災とトリアージ』
トリアージの語源はフランス語の『選別』らいしいが、まさに命の選別(命の優先順位)を行うのがトリアージで、如何すれば限られた医療の人員や器材で『最大限の人を救うか』にその目的がある。
トリアージで、1人を救う努力を放棄する代わりに10人を救えば大成功と言えるが、これはあくまでも非常時だから許されるべき『例外的な行為』であり決して一般化すべきでない事は言うまでも無い。
命の選別(トリアージ)は極まれな極限の条件下では成立するが、脳死移植のように法制化して平時に行うなどは狂気の沙汰で、命の重さに上下が有ると考える悪魔的な倫理観と言える。
『脳死移植の問題とはトリアージ(命の選別)』
脳死臓器移植とは、阪神大震災や尼崎の福知山線の大惨事時に問題になった『トリアージ』と(含まれている悪いところが)良く似ています。
平時では医療機関には余裕が有るから、怪我や病気の程度の重い順番、重傷者から治療するのが当たり前です。
原則的に、病状の重い人が最優先となる。
まさか治療しても助かる確率が低いからと重病人や重傷者を見殺しにはしない。
四の五の屁理屈を言わず、医療関係者は誰であれ症状の重い方から最優先で治療するものです。
ところが圧倒的に患者が多くて医療機関の能力をオーバーしている大惨事時には、助かる確率の低い最重傷患者は最初から諦めて、その余力でいくらかは症状の軽い患者を治療する。
医者は、助かる確率の高い患者を最優先にするのです。
これ、脳死移植の話とソックリだと思いませんか。?
脳死患者は現代の医療技術では回復は望めない。
上手く治療して延命できても最大限努力しても植物状態が精一杯だとすれば、いくら身体が生きていても北斗の拳のケンシロウの台詞のように『もう死んでいる』として治療を放棄する。
『トリアージの本当の意味』
トリアージ『選別』の最も過酷な現場は戦場で有るらしい。
いくら破壊と殺戮が任務の軍事組織でも平時は重病の方から治療するのが当たり前でトリアージする事はあり得ないが、殺し合いの現場では平時とは原則が完全に逆転する。
前線では、軽い方から治療して重傷者は後回しにする。
何故軽い怪我を優先するかというと、兵士を早く治療して早く前線(戦場)に送り返す必要が有るからです。
重傷者は治療に成功しても最早戦力としては使えないが、軽症者は戦力になる。
相互に殺しあう現場である戦場では、どれだけの多くの自軍の戦力(兵士)を維持して、相手の戦力を削ぐかに、全ての価値観が優先されている。
この辺の考え方は少量の火薬量にして敵軍の兵士を殺さずに下半身だけを吹き飛ばす『対人地雷』の考え方に似ています。
火薬量を多くして敵兵を殺せば効果は一人だけだが、殺さなければ救急搬出要員を最低でも2人は必要なので合計3人を戦場から離脱させられる。
トリアージを平時からマニュアル化して準備する話が今の日本でも進んでいるが、話の前提が逆転しています。
臓器移植でも言えるが、トリアージに対する根本的な勘違いが有るようです。
『カルネアデスの舟板としてのトリアージ(命の選別)』
臓器移植の技術が出現する以前は、死という誰もが逃れられない摂理の前で脳死患者と移植希望者の両者は平等だった。
しかし、技術はこの平等を崩し、両者の間に格差をもたらし「カルネアデスの舟板」を作り出した。
この場合の『カルネアデスの舟板』を、『命の選別』(トリアージ)と言い変えてもほとんど問題無いでしょう。
先ほど例に挙げた遭難状態で死にかかっている10人を救うために1人を諦める『カルネアデスの舟板』的選択は理に適っていて合理的であり非難されるべきではない。
しかし、それがいくら正しい選択であったとしても、間違っても『カルネアデスの舟板』を合法化(マニュアル化)して一般例にすべきでない。
あくまでも原則は如何なる時でも、一人の死に瀕している人を、其の他の人が全力で最期まで助けるとするのが、人間が機械でも獣でもなく『人』というかけがえの無い高貴な種であると言う証明でも有ると思っています。
『カルネアデスの舟板』は極限状態では確かに起こるが、決して推奨するべき性質のものではなく、(ましてや法制化するべきでなく)あくまでも生き残った関係者が『命』の重みを一生涯に渡って背負い続けなければならない程重い課題で有るのかも知れません。
すなわち、皮膚呼吸ができず、体力がおちるからです。
悪天候で疲れるだけでなく、下着がぬれて、体温を取られ、なおかつ、皮膚呼吸も阻害される。いいことはひとつもないですねぇ。
いや、それにしても登山をツアーにするなどというのはあまりいいことではないですね。
それより、脳死ツアーでもやってください。なお、帰り道はありません。
なんちゃってね。
熱中症対策のひとつの「ぬれた下着は、着替えること」は大事な指摘ですが、本当の理由は皮膚呼吸の有無ではないと思いますよ。
パキスタンなどの寝られない程の酷暑で服の上から水をかぶる荒業で寝るそうですが、まあ乾燥地帯ですからこんな事が出来るのでしょう。
熱中症や其の逆の低体温症の怖い所は、
温度によって脳の機能が大幅に低下する事で正常な判断が出来にくくなることらしいですよ。
これを逆用して、脳死に近い患者を意識的に低体温にして脳機能を止めて行う低体温療法で,死の臨界点を大幅に変える事が出来るそうです。
登山で自分や仲間の命が危機的な状態に陥って、1分でも早く早く緊急に何かをしなければ成らなくなった時に、一番最初にするべき事とは、何だと思いますか。?
一番正しい答えは、登山靴の靴紐を結びなおすとか、煙草を吸う人なら煙草をに火をつける。
様は、何でも良いから今の頭の中ので考えている考えから一歩距離を置く事なのです。
「ぬれた下着は、着替えること」は、
多分これと同じ意味ではないでしょうか。?
熱中症状態の患者は正常な思考が出来ていない可能性が有るので、熱中症対策のマニュアルを思い出すなどの、一にも二にも冷静に成る事が一番大切なのだと思います。
日本で山岳ガイドが出来たのは昔の事ではなく、本格的には30年ほど前で、当時はガイド一人で1~3人程度の少人数パーティだったし、今回の多人数のツアー形式とは違います。
今問題に成っている旅行ガイドによる、15人もの大集団のツアー登山も30年ほど前からですが、これには小説家の深田久弥の『日本百名山』と言う本が大きく影響しているのです。
今までなら連休でも数人の登山者しかいなかった山に『日本百名山』に山の名前が載っているの言う理由で何百人もが押し寄せる。
昔のような少数者なら問題は起きなくても、これでは何時大量遭難が生まれても不思議ではない。
大勢での『脳死ツアー』ですか。?
想像するだけでも、恐ろしそうですね。
今のような少人数なら問題点も少ないが、大勢なら間違いなく大量遭難が起きそうです。