150年前の1859年、『種の起源』(On the Origin of Species)がチャールズ・R. ダーウィンにより刊行され、『ヒトも動物の種のひとつであり偶然と必然が生んだ』とする科学側と『ヒトは神に寵愛されたヒエラルキーの最上位の存在である』とする宗教界との間で神学論争が引き起こされ欧米社会では大論争となる。
論争はダーウィン以外にもアルフレッド・ウォレスなど色々な科学的学説や証拠によって『進化論』の正しさは多くの人々によって証明される。
この時から欧米の科学は『宗教のくびき』から解放され、科学の絶対優位の現在のような人間中心主義(民主主義)社会が出来上がったといっても過言ではない。
『社会ダーウィニズムと優生学』
ところが、この適者生存や自然淘汰により種(生命)は進化するとする『進化論』の考え方は、ダーウィンが考えもしなかった意外な方向に使われるのです。
『種の起源』当時の19世紀中葉の西欧は産業革命以後の帝国主義の時代で世界植民地獲得競争が真っ盛りであった。
当時、強力な軍事力の西欧先進諸国(列強)が軍事的に劣っていたアジア、アフリカ、中南米諸国を侵略、征服する為の『強い優れたものが弱い劣ったものを征服(駆逐)支配する』ことを合理化する(自国民を納得させる)正当な科学的理由あるいは世界観が是非とも必要とされていたのです。
普通の一般市民感情(常識)では『悪逆非道なおぞましい行為』に見える帝国主義の過酷な植民地支配を『正義の行為』であると正当化する理論(イデオロギー)が求められていたのである。
生命の進化の圧力である、適者生存や自然淘汰などの『進化論』の中にある理論を、『人種とは別々の種である』とする間違った前提にたち『弱いものが滅び』『強い者だけが生き残る』ことが科学的に正しいと言う様な強者必勝、弱者必敗、弱肉強食の思想を人類や社会にそのまま乱暴に当てはめ、先進国による侵略戦争や植民地化や人種差別、民族や文化の絶滅さえも『科学的に正しい』とする恐るべき『社会ダーウィニズム』や『優生学』が、ダーウィンの進化論から派生して生まれてくる。
『人の由来と性に関連した選択』
これら恐るべき科学の逸脱や暴走(社会ダーウィニズムや優生学)に対し、ダーウィン自身が重い腰を上げ『人類の進化』について語った『人間の進化と性淘汰』(The Descent Of Man And Selection In Relation To Sex)が『種の起源』から12年後の1871年に出版されている。
ダーウィンは、『相互に助け合いそして保護し合う全ての動物に取って、それは一つの非常に重要な事として自然淘汰によって強化されて来た。』
『最も思いやりの強いメンバーを最も多く含んでいる、その様な集団は最も繁栄し、最も多くの子孫を育成する。』と指摘する。
ダーウィンは、『環境に適応し生き残るには集団内で優しい思いやりを持つメンバーが多ければ多いほど其の集団は繁栄する。』と主張した。
異人種間の殺し合いや略奪、奴隷化植民地化を是(科学的必然性)とする社会ダーウィニズムの考え方の正反対の『優しさ、思いやり、同胞と助け合う』種が、人類を含めた全ての生命全体の中で生き残る鍵であり、そのような特色のある種(人間)の社会が繁栄すると言っているのです。
チャールズ・ダーウィンの『進化論』の中の『一番環境に適応したものが生き残る』という適者生存、自然淘汰の理論を応用(恣意的な拡大解釈)して作られた社会ダーウィニズムの弱肉強食の理論(帝国主義)は、根本的な間違いを犯していたのです。
社会ダーウィニズムと正反対の考え方である『相互に助け合い、保護し合う種の方が有利』(民主主義、社会主義)とのダーウィンの『人類の進化』は、今の民主主義社会のめざましい発展とその正反対の帝国主義や独裁政治社会の衰退を見れば、このダーウィン学説の正しさは自ずから納得いく話である。
『みんなで共に食べる(共食)する人類』
過去3万年前にはネアンデルタール人など異人種も存在していたが現存する人類はホモ・サピエンス一種だけになっているが、この種だけの他の近縁の類人猿に無い際立った特色が『共食』であり、それ以外には『人類』のようにかならず一箇所に集まって集団で共に一つの食事を行う例は他にはない。
人類に一番近いボノボでも集団で同じ場所で食べている(共食)様にも見えますが、実態は個々の個体は別々に食料を確保し食事(個食)しているのです。
みんなで食べ物を分け合って食べる(共食する)人類では双子は育つが、個食の類人猿では最も人に近いボノボでも育つのは無理だそうです。
理由は母親が自分と子供を含めた二人分の食料は集められるが3人分の確保には無理があり結果的に双子が育てられない。
対して人類では食事はみんなが集まって分け合って食べる(共食)ので双子でも育つし、自分では十分な食料を確保できない病人、怪我人、老人、障害者も生きていけるのです。
『超多産形の人類』
チンパンジーやゴリラなど他の近隣の類人猿と比べてみると、初期の人類は極めて弱い『種』であったようで、発情期が限定されていず(発情期が無い哺乳類はウサギなど極少数)妊娠期間もきわめて短くしかも授乳期間中も妊娠可能で双子も年子も可能なのは人類だけである。
他の類人猿のゴリラやボノボなどでは、発情期間は短く限られており次の妊娠には4~5年の間隔が必要でしかも原則双子は無いのでヒトに比べれば女性が生涯に生める子供の絶対数が数分の一しかない。
今の日本の少子化現象からは考えられないかも知れませんが、人類は全ての弱い種(弱者)に特徴的な超多産だったわけで、この事から『弱いもの同士が食べ物を分け合って(助け合って)辛うじて生き残ってきたのが人類の先祖の姿』だったのではないでしょうか。
このように見ると、『全ての生き物を支配する人類』などの一神教的な考え方は極最近生まれた考え方のようで生物学的には正しくない。
人類ともっとも近い類人猿との比較から判断すれば、やはり『弱者の相互扶助』(民主主義、社会主義)は今日の人類繁栄の鍵のようです。
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ダーウィンの進化論とアメリカの福音派(原理主義)(2008年09月22日 | 宗教
最近のネアンデルタール人のミトコンドリアDNAの分析によると、「単一起源説」が正しいと考えられています。 私には、これは未だに戦争を根絶できない人類の遺伝的特性のように思われます。 実際、ヒト以外の種では、仲間争いにおいて相手が死ぬまで戦うことはまれだそうです。
勿論、『人間の進化と性淘汰』の主張は間違っているのではなく、社会性や知性の獲得が人類の大きな遺伝的特徴であるのは明らかです。
>ネアンデルタール人などの旧人を殺戮して絶滅させてきた可能性<
は、歴史上の数々の残虐行為や今のアフガン戦争なんかを考えるから連想するだけで、可能性としては非常に低いでしょう。
何故なら狭い孤立した島などと違い広い大陸ではたとえ対立したとしても人口密度はとんでもなく少なくて幾らでも逃げていく場所(自由の新天地)は不足していません。
ネアンデルタール人が絶滅したとされている3万年前には御先祖様の縄文人たちが住み慣れた故郷のバイカル湖周辺が寒冷化(氷河砂漠化)のために住めなくなり結氷して地続きになっていた日本列島にマンモスを追って移住してきたらしい。もう一方の先祖たちはベーリング海峡を越えて遠く南米まで旅立っています。
縄文人は日本列島全体でも数万人でとんでもなく少ない人口密度です。
2000年以上前までは世界全体の人口は少なく、住み難い時は新天地を求めて移動する事はそれ程珍しい事ではなく弥生人は中国の春秋戦国時代の戦乱を避けて日本列島に移住してきた戦争難民みたいな人々だったらしい。
人々が、最早移住できる先天地がなくなったあたりに(同時期に)、今に続く『宗教』が生まれているのです。
これは偶然に起こったことなのか。?それとも何か関連があるのか。?
私は何か関連がある様に思えて仕方があるません。仏教の無常観なんか、『もう、何処にも逃げていけない』と悟った事が原因している。??のではないでしょうか。
それに結果的には滅んだとは言えネアンデルタール人は、決して弱い劣った種ではなく現生人類よりも脳の容量も同じか上で、体格も運動能力も優れていたが唯一気道が狭く発声だけが劣っていた。
ネアンデルタール人のような頑丈型の人類よりも劣っていた我々人類ではあるが唯一コミュニケーション能力に秀でていたので、氷河期の飢餓地獄でも少ない食べ物を平等に分け合って生きのびる事が出来たのでしょう。極限状態では『いかに平等であるか』が生死を分けます。
極限に生きる北極圏の先住民族であるエスキモー(イヌイット)の古い道徳(風習)では泥棒という概念はなく持たざる者が沢山もっている者から幾らかを分けてもらうのは当たり前なのです。
他人の持ち物を無断で持っていくのは、何ら『悪』ではなく、持たざる者に自分の物を譲らない事が許されない『悪』なのです。
今の様に、一人が有り余るほど多くを独占して、関係ない誰か他人が飢餓状態になる現代社会よりも、この昔の極限の民の知恵である『余っていれば足りない者が勝手にもって行ってもよい社会』の方が、余程合理的でもあり民主的でもあり道徳的にも高貴な進んだ社会であると思いませんか。?
弥生人は集落に堀とか塀とかも造っているのですが、このやり方は元々住んでいた大陸の風習を持ち込んだ物で、元々の日本の伝統ではなく紛争を武力で解決する野蛮な風習(今のアメリカ型)です。
ところが日本古来の元々の縄文人は今と同じで扮装は決して武力ではなく話し合いで解決する憲法9条型であったらしく、この方式は別にアメリカに戦後押し付けられた物ではなく1万年以上続く先祖の大昔からの日本の長い伝統でしょう。
大昔の初期の人類ですが、近隣のゴリラやオランウータン、チンパンジーと違い、『何故密林を出たのか』が良くわかっているようで実は良く分かっていない。
元々森林に住んでいたのに、たいした武器をもたない人類にとって草原は食料も少なく隠れる場所もない非常に危険な場所で、決して住みやすい環境ではない。
初期の人類は、旧約聖書の記述のように、密林という住み易い『エデンの園』を追われた人々(グループ)だったのかも知れません。
人類だけの特徴である二足歩行ですが、これが実は理由が良く分からない。
4つ足の方が安定しているし走る速度が早いのです。
サバンナでは走る速度は生き残る上で決定的な要素で、二足歩行では肉食獣に到底かなわないのです。(ダチョウは二足歩行ですが構造が全く違います。)
四足歩行でも熊の様に足裏全体を地面に付けると遅くなり、逃げる事が得意な草食獣は例外なくつま先立ちで立っており、人類のような足裏全体は象などの超大型獣だけですが、何と人類は初期の小さな体型の段階から大型獣の同じ歩き方をしていた。
象では大きい為に敵も少なく体重がとんでもなく重いので『如何にしてエネルギーを少なくして移動するか』が走る速度なんかよりも優先されるが、人の骨格も『如何にして省エネで移動できるか』が優先された構造になっている。
これでは走るのが遅いはずです。
省エネ歩行で長く歩くのは得意だが、早く走るのは苦手だった。
何故人類はその方向を選んだのか。?何の利点があったのか。?
地面にある植物の根などを探すのなら四足の方が優れている。直立歩行の人類が農作業をするようになってから腰の痛みに苦しめられるようになった。
直立しての利点も遠くが見えることで、二足歩行も遠くまで省エネで歩く事が出来るなので、広いエリアで食物を探す事は可能だったのでしょう。
また、縄文人と弥生人との関係もとても面白いです。 渡来人(弥生人)はより大きな農耕文化を持っていたので、文明を経験していたはずです。 そうして、より強い侵略者(渡来人)が先住民(縄文人)を征服し、最大で30万人いたとされる縄文人は北方(東北や北海道)や南方(沖縄)に追いやられたのでしょう。 1万年も日本で生きてきた縄文人の方が、より平和で穏やかな精神文化を持っていたのは、自然なことです。 おそらく、彼らはアイヌ・北米インディアン・オーストラリアアボリジニなどと同様の自然信仰を中心とした生活を維持していたと考えられます。
1 「勿論、『人間の進化と性淘汰』の主張は間違っているのではなく、社会性や知性の獲得が人類の大きな遺伝的特徴であるのは明らかです。」
類人猿と比較した場合、人類の遺伝的特徴は、まず、身体的な特質があるわけです。もえおじさんのいう「社会性」「知性」というのは、おそらく時代としての観念・言葉の在り方なのだと思いますが、その観念の遺伝特特徴なるものは、人類の身体的な特質を原因とするのです。すなわち、直接的には有節音を発生する喉の構造があり、それを支える直立二足歩行という身体的な特質が人類の遺伝的な特徴なのです。
したがって、「社会性」、「知性」という時代としての観念や思想としての観念、言葉のあり方についてではなく、その人類の本質は、身体的な特徴、すなわち、遺伝的な特質になるのです。
このように、身体のレベルで議論しなければならないことを観念のレベルへ混同することによっては、科学的な議論にはなりません。
また、次の点も民族と人類性を混同しておりおかしいです。
2 「最近のネアンデルタール人のミトコンドリアDNAの分析によると、「単一起源説」が正しいと考えられています。 私には、これは未だに戦争を根絶できない人類の遺伝的特性のように思われます。」
ネアンデルタール人と、ホモサピエンスは生殖可能な同一種、すなわち、人類であるのであるのであれば、ホモサピエンスがネアンデルタール人を絶滅させたとしても、それは民族間の殺し合いなのであって、人類の特質を言うものではありません。民族間の殺し合いが発生する原因を人類の遺伝的な攻撃性、特質なるものに結びつける思想こそ、ブログ主さんが記事で警鐘をならしている最悪の非科学的な理論である社会ダーウィニズム、したがって、ナチズムではないでしょうか?
そして、結論は、もえおじさんも認めているように、人類の遺伝的な特徴、特質はダーウィンの科学論なのではないでしょうか?
3 「勿論、『人間の進化と性淘汰』の主張は間違っているのではなく、」(もえおじさん)
「これら恐るべき科学の逸脱や暴走(社会ダーウィニズムや優生学)に対し、ダーウィン自身が重い腰を上げ人類の進化について語った『人間の進化と性淘汰』(The Descent Of Man And Selection In Relation To Sex)が『種の起源』から12年後の1871年に出版されている。
ダーウィンは、『相互に助け合いそして保護し合う全ての動物に取って、それは一つの非常に重要な事として自然淘汰によって強化されて来た。』
『最も思いやりの強いメンバーを最も多く含んでいる、その様な集団は最も繁栄し、最も多くの子孫を育成する。』と指摘する。
ダーウィンは、『環境に適応し生き残るには集団内で優しい思いやりを持つメンバーが多ければ多いほど其の集団は繁栄する。』と主張した。
異人種間の殺し合いや略奪、奴隷化植民地化を是(科学的必然性)とする社会ダーウィニズムの考え方の正反対の『優しさ、思いやり、同胞と助け合う』種が、人類を含めた全ての生命全体の中で生き残る鍵であり、そのような特色のある種(人間)の社会が繁栄すると言っているのです。
進化論の『人類の進化』(人間の由来と性淘汰)中の『一番環境に適応したものが生き残る』という適者生存、自然淘汰の理論を応用(恣意的な拡大解釈)して作られた社会ダーウィニズムの弱肉強食の理論(帝国主義)は根本的な間違いを犯していた。
社会ダーウィニズムと正反対の考え方である『相互に助け合い、保護し合う種の方が有利』(民主主義、社会主義)とのダーウィンの『人類の進化』は、今の民主主義社会のめざましい発展とその正反対の帝国主義や独裁政治社会の衰退を見れば、このダーウィン学説の正しさは自ずから納得いく話である。」
しかし彼等は滅んでしまい我々人類は生きのこった。
長い地球の歴史の中で、生命(全ての種)にとって一番の脅威は外敵の存在ではなく食料問題(飢餓)なのです。
これは人間でも全く同じで日本人が飢餓から解放されたのは極最近のほんの数十年前のことなのです。
そして世界では今でも10億人近い人口が飢餓に苦しんでいます。
野生のカリブーの群れにとって狼はなんら脅威でなく、狼などの外敵の存在は病気や弱い個体を群れから淘汰するので、種としてはマイナスどころかプラスに働く。
対して『飢餓』は種の絶滅を招く、何よりも恐ろしいものです。
この時に防衛体力と攻撃体力は必ずしも一致しないばかりでなく多くの場合は相反する。
飢餓の時は体格に優れた男よりも、筋肉が小さいために基礎代謝が少なくて済む女の方が生き延びる確率が高くなる。
腕力自慢の攻撃力の勝る男(ネアンデルタール人)より平和志向の女(ホモサピエンス)の方が防衛体力は優れているともいえます。
現在の戦争でもベトナム戦争やソ連のアフガン侵攻、今のイラクやアフガンの戦争で分かったことは攻撃力の優劣は短期では圧倒的に有利だが長期ではその反対の防衛力(防御)が最後には勝つ仕組みになっていますが、何と面白い事に戦争論で有名なプロイセンの戦略家クラウゼビッツは常識とは正反対に軍事では『攻勢よりも守勢』が有利であると説いているのですよ。
オバマのプラハ演説は『守勢の大事』(攻勢の危険性)を説いたものでクラウゼビッツの戦争論の論理で、その正反対の『正義の戦争の大事さ』『アメリカの攻撃力の正当性』をノーベル賞授賞式で主張したプラハ演説は弱肉強食の帝国主義の世界観で、ダーウィンが140年前に否定した社会ダーウィニズムそのものです。
縄文人が弥生人に駆逐されたとか征服されたとかの事実は無く、北方系の縄文人と南方系の弥生人は今西錦司の『棲み分け』理論を行っていたようで、それ程争うことなく平和裏に混血が進んでいって現在の日本人が生まれた模様です。
縄文人の住んでいた縦穴式住居は地面を一段掘り下げて作った半地下型なので、先祖の故郷だったシベリアのブリザードの猛威を避ける目的で作られていますが、これでは高温多湿の日本列島南部では住み難い。
結果縄文人は東北とか北海道などの北に人口が偏って住んでいたし、弥生人の高床式住居は温暖な気候には向いているが東北の地吹雪には住み難いので矢張り西日本に偏って住んでいた。
縄文最盛期の5~6000年前は今よりも余程温暖であったようで海水面が現在より4mも高かったので縄文遺跡の貝塚は何れも内陸深くに発見されている。(このことからも今の温暖化論議はインチキくさい)
今日本にある洪積平野の大部分は、この時は海面下で存在していなかったようで、弥生人の稲作は寒冷化による海面上昇によって出来上がった平野部の湿地に作られたようです。
ですから縄文人を弥生人が駆逐したとの説は疑わしく昨今の世知辛い殺伐とした世相を反映したもので、当時はもっと余裕があり人々は今よりおおらかだったようです。
ここで問題なのは、人類の歴史で戦争が根絶できていない事実をいかに解釈すべきかという点です。 もしも、北方系の縄文人と南方系の弥生人がそれ程争うことなく平和裏に混血が進んでいって現在の日本人が生まれたのであれば、重要な事実認識となります。 つまり、古代においては『すみわけ』が普遍的な人類文化であり、戦争は農耕・文明以降の「近代の特性」にすぎないということです。
記事の趣旨の社会ダーウィニズムの問題点は、もえおじさんに粗方まとめてもらったので私が書き加える事はそれ程無いのですがあえて付け加えると、
『戦争』は人類600万年の長い歴史の中で高々数千年、市民戦争ではフランス革命以後の230年程度で、近代戦争に限れば150年程度の極短い例外的な話で、それ以外は人類は全て日本国憲法9条の理念である『揉め事は話し合いで解決』していた。
人類の長年の歴史的な生き方は平和と協調なので人々の道徳とか心情とかが邪魔をして『戦争』のように制度として『殺人は正義』だと言われても多くの人は人を殺せないのです。
戦場で兵士が敵兵に向かって銃の引き金をひける確率は10人のうちで一人か二人だけで、それ以外のの兵士はわざと狙いを外して空に向けて銃を撃つが、この確率はどの軍隊でも全く同じなのです。
人類の普遍的なタブーである殺人を犯せる兵士は極少数で、大多数は人を殺せない。
このことに気が付いたアメリカ軍は徹底的な殺人訓練で発砲率の改善に努め、朝鮮戦争では50%ベトナム戦争何と九十数%以上の超高率に高める事に成功するがトンデモナイ副作用が。
戦場を離れてもこの訓練が尾を引いて社会復帰できず、シルベスタ・スタローンが演じたランボーの主人公のように殺人機械のままなので、戦争に勝つつもりが本国のアメリカ社会自体が危険になってしまった。
現在はアメリカ軍もこの危険性に気が付きいくらかは自粛しているのですが、それでも今でもアメリカ軍の発砲率は二十数%の高さで断トツ。
この高さは異常で、それで今でも時々2000年の大晦日に起こった世田谷一家4人皆殺しとか八王子スーパーアルバイト店員女性3人殺しのような考えられない凶悪事件が基地を抜け出したアメリカ軍兵士により引き起こされる。
遺留品が大量にあり幾ら犯人が判っていても相手が悪すぎて日本の警察では手も足も出ません。
そのとおりです。しかし、人類の遺伝子レベル、したがって、肉体・身体レベルでの「攻撃性」なるものは、果たして、人類同士に向いているものなのか、それとも、自然界で人類が生き延びていくために猛獣と戦うため攻撃性なのか、という点が問題になります。ここを行動すると誤ります。要するに、社会ダーウィニズムに科学的な根拠を与えることになるわけです。観念レベルでは別次元でしょうが、遺伝子、肉体・身体レベルでは根拠があるということになるわけです。ここに身体レベルと観念レベルの議論を混同する非科学的な認識への通路があります。
2 「戦争は近代の産物なのか」、 「問題なのは、人類の歴史で戦争が根絶できていない事実をいかに解釈すべきかという点」
通常、戦争とは国家の行為を指しますので、戦争は国家の成立、したがって文明成立後に起源があるということなので、近代よりも射程の広いパースペクティブが必要です。したがって、文明論、国家の起源論になってきます。
さらに、民族間、異人種間の殺し合いのレベルでいえば、さらに射程を広げねばなりません。すなわち、国家の起源以前、文明発生以前の人類史のパースペクティブになります。
ここで民族間、異人種間の殺し合いの原因を人類の遺伝子レベル、身体・肉体レベルで科学的に解明していく必要があります。そうなると、ブログ主さんが記事化しているダーウィンの科学論になるということです。
では、ダーウィンの科学論に立脚した科学的な人類史の理論から言えば、何故、民族間、異人種間の殺し合いは起こるのか?その原因は?ということになります。
人類が進化の過程で獲得してきた遺伝子、肉体・身体レベルに、したがって、科学的に、その原因を求めることができないのであれば、最も科学的な原因は、「食料不足」になります。
つまり、生産力の未開発、低さが原因で異民族、異人種間の殺し合いが発生したのが、国家成立以前における殺し合いの原因であり、国家成立以後には、さらに、他の原因が追加されていくという複雑性を帯びてくるわけです。
ブログ記事の内容に対するコメントと違い、投稿されたコメントに対するコメントは節度を持って行ってください。宜しくお願い致します。
国家の戦争を『科学的正義』とする、帝国主義のイデオロギーである『社会ダーウィニズム』の発生は150年前の進化論から派生したのは明らかですが、
これは人類600万年の歴史から見れば極最近考え出された屁理屈程度の自分(国家)の犯罪行為の隠蔽あるいは言い訳で、科学では元々ありません。
基本的に人は人を殺せないのです。
人殺しを正義の行為とする戦争状態でも、殺せる人は一割程度の少数で、DNAに関係しているかどうかは別にしても、大多数の多くの普通の人々は人を殺せないのです。
ですからノーベル平和賞受賞のオバマ大統領のオスロ演説での『正義の戦争』とのアメリカの侵略戦争擁護は二重三重に愚かし犯罪的言い訳(誤魔化し)に過ぎません。
ただ何事にも例外が。
精子と卵子では製造コストとか数量に圧倒的な差があり、その意味では男女は平等には出来ていないので繁殖期のオス同士の争いは全ての生命に共通する出来事で、勿論人間も哺乳類の一つであるので殺人率は男女間で大きな差がある。
何処の国でも基本的に人を殺すのは二十歳前後の男なので表にすると同じカーブを描きこれをユニバーサルカーブと呼ぶのですが、これがわが国では近年大きく減ってい崩れているのですよ。
日本では全ての生命に共通する繁殖期の男が争わなくなったらしいのです。
殺人が減る事は間違いなく良い事ですが、果たして『殺人が完全にすべて無くなった社会』が出現したとして、それが理想の社会と呼べるのでしょうか。?
その社会とは、『若者が、若者で無くなった社会』ではないでしょうか。?それなら、その状態が良いのか、あるいは何かが失われた世界なのか。?考えさせられますね。
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2008年02月02日 | 文化・歴史