逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

何時までも終わらない『水からの伝言』の不思議

2008年11月16日 | 疑似科学・ニセ疑似科学批判

関東地区女性校長会による『水からの伝言』(美しい言葉が美しい氷の結晶を作る)の江本勝氏が7月4日「平成20年度 関東地区公立小・中学校女性校長会総会・研修会」として関東地区の女性校長約120名が参加して埼玉県南浦和にあるさいたま市文化センターで開催される。
またこの「水からの伝言」の絵本は後日、各関東圏内小学校に約7000冊が無料で配られた。

『怒りと違和感』

dr.stoneflyの戯れ言  「水伝、教育現場に導入」(1)…ばかばかしさを見抜け!! 2008/09/25
「水伝、教育現場に導入」(2)…怒りの矛先は何処? 2008/10/01

まず第一感で、ムカっ腹が立ち、これは遺憾と感じる。肌感覚である。
 何故ムカっ腹が立つ!?

 「水からの伝言」は科学と標榜しているが、科学的に嘘っぱちだからか?
 公的教育機関が江本というペテン師の金儲けを援助しているからか?

「善悪」は科学なのかよ!!
  (水伝がたとえ科学的正しかったとしても、善悪の判断はできないだろ)
 こんなバカバカしいことがまかり通るのか!!
 これが日本の教育の実態なのか!!

ワタシの怒りは、「水伝」に対する怒りなのか?
それとも「教育現場に導入された」ことへの怒りなのか?(一部を抜粋)


『科学&宗教との水からの伝言との関連』

ほたるいかの書きつけ「宗教の『急所』は何処にあるか」小林多喜二2008-08-20

・・・・宗教というものは現実社会の反映であり、現代(当時の)の資本主義社会における経済関係においては、貧困や窮乏、没落といったものが、人間にはどうすることもできない力となって襲ってくるものであり、そのような状況では、つい宗教を信じたくなるものだ、ということだ。
マルクスの「宗教は顛倒している現実から来ているひとつの理論である。だから、その顛倒している現実が解体すると宗教も自ら破砕する」という言葉や、レーニンの「宗教に対する闘争は結局その顛倒している社会をもう一つでんぐり返りさせて、正当な社会にするために闘う階級闘争の具体的実践の一分野として、それと共に闘われなければならない。」

この短文が議論している内容は、ほぼそのまま現代におけるニセ科学の問題にも通ずるのではないか、と私には思える。
現代的新興宗教(のうち社会的に問題のあるもの)やニセ科学が昔に比べれば大規模な体系を持っておらず個別的な部分にとどまっているものが多いなど、状況の違いを考慮すべき点は多々あるけれども、結局現実社会における矛盾からの逃避としての宗教であったりニセ科学であったりという側面をおさえておく必要はあるのだろう。・・・・・・・

瀬戸智子の枕草子2008.09.21水伝汚染が広がりつつあるのか?
http://ts.way-nifty.com/makura/2008/09/post-1707.html

・・・・・・“科学の装いをまとっていないと信じられない”
というところにあるのではないのか疑問を持ちます。
つまり科学が多くの者にとっては宗教と化している。
これはおかしな話です。
科学を育む基本姿勢は「健全な懐疑」。宗教の方は「健全な信仰」。
この2つは本来相容れないもののはずで、ということは逆に2つが両立することは可能なはず。
とはいっても実際問題、ひとつの人格のなかでこれは2つを両立させるのはかなり困難なようです。
現在、ニセ科学という形の不健全な信仰が蔓延るのは、科学・宗教両立の困難性と科学の宗教に対する優位性からきているのではないか、と思うのです。
これらのことが「健全な信仰」を阻害している。

だいたいにおいて、現代人たる私たちには「健全な信仰」なるものをイメージすることからして難しい。
「健全な懐疑」はイメージできますが。しかし、「健全な信仰」をイメージできない状態というのは、人間にとってあまり健全な状態とはいえないように思います。

投稿: 愚樵 | 2008.09.21 19:46

『科学を宗教として信じている人々』

十分に世俗化された日本では、宗教と科学は完全に分離されていると考えられていますが、そうではない国も有るし、日本人の中でも分離できない人もいるようです。
両者は全く違う別々の物ですが、どちらも人類の文化的活動の産物で、個々の個人の段階では同じ一人の脳内で同居している。

そして、元々両者には関連性があり、それで関係ない両者が混同される事は当然起こります。
愚樵さんの、『科学』に対して宗教的なアプローチをする人達の話は私としては納得できる。

科学に最初から正しいモノが有ったわけではなく、間違いも有れば正解も有った。
科学や技術は、数々の間違いを原動力にして進歩してきた。
だからニセ科学批判(間違いを正す必要性)は正しくとも『ニセ科学』は撲滅出来ないし、これからも幾等でも生まれてくる。

ニセ科学は間違いではあっても、悪ではない。(商売として行えば詐欺行為で違法ですが)
科学に正誤はあっても、善悪は無いんですよ。

しかし宗教は逆です。
宗教的な考え方の基本は、何かを『正誤』の問題と捉えず(道徳的な)『善悪』の問題と捉え、しかも其の事を絶対化する。

『ニセ科学とニセ科学批判の共通点』

今の日本でも『科学』を文字通り『宗教的に信じている』人は大勢いますよ。
この『科学を宗教的に信じている人』は、それこそ宗教的情熱で『ニセ科学批判』を今日でも行っている。
科学的に間違っている『水からの伝言』を商売にしている江本勝は悪い事をしているのは事実ではある。
しかしだからと言って『ニセ科学は悪』である、とする考え方も江本勝と同じような非科学的(宗教的、道徳的)な間違いを犯している。
しかもこちらの方が全く其のこと(自分の宗教的側面)(非科学的な思考方法)に気が付いていない分扱いが厄介である。
科学に『間違い』が有るのは当たり前の常識以前の事柄で、だから正誤の判定は科学的に出来るが、科学的に善悪は判断出来ない。
善悪の判断までが科学で出来ると考える段階で、『科学』は宗教(科学教)に限りなく近くなり教条の世界の迷宮に入ってしまう。
科学とはエラーの自己修正過程であるとする態度からは宗教(科学教)は生まれないが、反対に『ニセ科学は悪である』との考え方と宗教心の間は指呼の間である。

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