『臓器強奪法案?』
8時間の委員会審議で今までの『人の死は心臓死』を変更。『脳死は人の死』とする臓器移植法改正案A案が18日衆院で可決される。
翌19日には、海外での自衛隊の武力行使に道を開く「海賊対処」派兵新法、租税特別措置法、改定国民年金法が参議院の議決を無視して衆議院が郵政選挙の賛成多数で成立させる。
一日に衆議院が参議院議決を覆して三つも法案を成立させたのは初めての出来事です。
『各党の態度』
臓器移植法案に対して共産党は『審議が尽くされていない』として棄権の党議拘束をした。
対して共産党の除く各党は党議拘束をかけず議員の判断に任した。
どちらが正しいのでしょうか。?
臓器法案での賛否ですが、自民党議員は概ね賛成で民主は賛成の議員もいるが反対の方が若干多い。
其の他の民社党、共産党、国民新党は反対か棄権する。
マスコミでは読売、産経、日経は法案賛成(臓器移植推進)で、其の他は慎重審議を主張している。
『マスコミの世論誘導』
光市母子殺害事件の最高裁差し戻し死刑判決には、被告少年の情状面の報道は皆無でひたすら犯罪の凶悪性と被害者家族の声だけを流したマスコミ各社の世論誘導の力が大きかった。
『被害者の人権』の美名の下に、光市事件を利用した『永山判例』の変更と治安不安を利用した刑罰厳罰化の方針が隠されていた。
今回もマスコミ各社は、法案審議に関して、マスコミ(特にテレビなどの映像メディア)はアメリカでの手術費用数億円をみんなでカンパする『美談』等が描かれている。
移植で無いと助からない乳児の映像を流して『日本国内では手術出来ない』として移植推進の方に世論を誘導していた。
『本当に脳死は人の死か?』
日本では100万人以上が毎年必ず死んでいるが、脳死者は0.数%数千人の少なさである。
脳死は現在の医療技術が生み出した隙間のような例外的な『ごく稀な死』である。
12年前に可決された臓器移植法では臓器移植の時だけ『脳死は人の死』とする二重基準、ダブルスタンダードだった。
同じ脳死者でも臓器移植のドナーは『死者』で、臓器移植に関係ないの脳死者は『死者』では無くて、『生きている』としていた。
『全ての脳死は人の死』とするが以前の『原則は心臓死』の二重基準法案の方が、(矛盾しているが)少しは良かった。
今回日本人全体に長く定着していて別段何の不自由も無い一般的な『死の定義』である心臓死に変え、ごく稀な例外的な『脳死』を『新しい死の定義』に決める合理的な理由は、臓器移植推進以外には考えられない。
しかし仮に脳死法案に効果があり、臓器移植が十倍になったとしても年間数十件程度にしかならず『臓器移植』自体が稀な出来事で、移植希望者が誰でもが受けれる医療ではない。
目的(臓器移植)の為に、一般原則自体を変えるなどは本末転倒であるが、それ以前に稀な出来事(0・数%)を一般論(全体)とするなどは詭弁中の詭弁で許されるものではない。
『他人の死を期待するのはおぞましい』
『脳死』は人口呼吸器等の生命維持技術の大きな進歩により現代医学が作り出した死と生の過渡期の状態で、『心臓死から脳死へ』の動機は『生きている臓器の確保』以外には無いのである。
今の移植技術では『心臓死の臓器』では限界がある。
『死んだ臓器』では心臓移植は成功しないので『生きている心臓』を求めているのです。
移植を考えなけれ、今までの心停止自発呼吸の停止等の死の三兆候による心臓死で別に不都合は無い。
科学の進歩と其の限界の狭間の『脳死者』を、死者に分類する事によって『生きた心臓』を移植用に確保する事が可能となる。
最初の心臓移植が人種差別で悪名を馳せた南アフリカ共和国で行われ、二番目が矢張り激しい人種差別の60年代アメリカであったことは示唆的である。
『誰かの死』でしか成立しない医療行為(脳死移植)が真っ当で有るとするのは下品でおぞましい。
しかも万人に平等に適応出来ない仕組みになっている。
脳死者の臓器は圧倒的に少なく、対して移植希望者は多すぎて、『誰でもが必要なら受けられる医療』とは程遠い。
現に年間4000件近くの脳死による臓器移植が行われているアメリカで、事故で脳死したホームレスから金銭的に余裕のある人への臓器移植は有るが、其の逆の例は絶対に起こらないのです。
8時間の委員会審議で今までの『人の死は心臓死』を変更。『脳死は人の死』とする臓器移植法改正案A案が18日衆院で可決される。
翌19日には、海外での自衛隊の武力行使に道を開く「海賊対処」派兵新法、租税特別措置法、改定国民年金法が参議院の議決を無視して衆議院が郵政選挙の賛成多数で成立させる。
一日に衆議院が参議院議決を覆して三つも法案を成立させたのは初めての出来事です。
『各党の態度』
臓器移植法案に対して共産党は『審議が尽くされていない』として棄権の党議拘束をした。
対して共産党の除く各党は党議拘束をかけず議員の判断に任した。
どちらが正しいのでしょうか。?
臓器法案での賛否ですが、自民党議員は概ね賛成で民主は賛成の議員もいるが反対の方が若干多い。
其の他の民社党、共産党、国民新党は反対か棄権する。
マスコミでは読売、産経、日経は法案賛成(臓器移植推進)で、其の他は慎重審議を主張している。
『マスコミの世論誘導』
光市母子殺害事件の最高裁差し戻し死刑判決には、被告少年の情状面の報道は皆無でひたすら犯罪の凶悪性と被害者家族の声だけを流したマスコミ各社の世論誘導の力が大きかった。
『被害者の人権』の美名の下に、光市事件を利用した『永山判例』の変更と治安不安を利用した刑罰厳罰化の方針が隠されていた。
今回もマスコミ各社は、法案審議に関して、マスコミ(特にテレビなどの映像メディア)はアメリカでの手術費用数億円をみんなでカンパする『美談』等が描かれている。
移植で無いと助からない乳児の映像を流して『日本国内では手術出来ない』として移植推進の方に世論を誘導していた。
『本当に脳死は人の死か?』
日本では100万人以上が毎年必ず死んでいるが、脳死者は0.数%数千人の少なさである。
脳死は現在の医療技術が生み出した隙間のような例外的な『ごく稀な死』である。
12年前に可決された臓器移植法では臓器移植の時だけ『脳死は人の死』とする二重基準、ダブルスタンダードだった。
同じ脳死者でも臓器移植のドナーは『死者』で、臓器移植に関係ないの脳死者は『死者』では無くて、『生きている』としていた。
『全ての脳死は人の死』とするが以前の『原則は心臓死』の二重基準法案の方が、(矛盾しているが)少しは良かった。
今回日本人全体に長く定着していて別段何の不自由も無い一般的な『死の定義』である心臓死に変え、ごく稀な例外的な『脳死』を『新しい死の定義』に決める合理的な理由は、臓器移植推進以外には考えられない。
しかし仮に脳死法案に効果があり、臓器移植が十倍になったとしても年間数十件程度にしかならず『臓器移植』自体が稀な出来事で、移植希望者が誰でもが受けれる医療ではない。
目的(臓器移植)の為に、一般原則自体を変えるなどは本末転倒であるが、それ以前に稀な出来事(0・数%)を一般論(全体)とするなどは詭弁中の詭弁で許されるものではない。
『他人の死を期待するのはおぞましい』
『脳死』は人口呼吸器等の生命維持技術の大きな進歩により現代医学が作り出した死と生の過渡期の状態で、『心臓死から脳死へ』の動機は『生きている臓器の確保』以外には無いのである。
今の移植技術では『心臓死の臓器』では限界がある。
『死んだ臓器』では心臓移植は成功しないので『生きている心臓』を求めているのです。
移植を考えなけれ、今までの心停止自発呼吸の停止等の死の三兆候による心臓死で別に不都合は無い。
科学の進歩と其の限界の狭間の『脳死者』を、死者に分類する事によって『生きた心臓』を移植用に確保する事が可能となる。
最初の心臓移植が人種差別で悪名を馳せた南アフリカ共和国で行われ、二番目が矢張り激しい人種差別の60年代アメリカであったことは示唆的である。
『誰かの死』でしか成立しない医療行為(脳死移植)が真っ当で有るとするのは下品でおぞましい。
しかも万人に平等に適応出来ない仕組みになっている。
脳死者の臓器は圧倒的に少なく、対して移植希望者は多すぎて、『誰でもが必要なら受けられる医療』とは程遠い。
現に年間4000件近くの脳死による臓器移植が行われているアメリカで、事故で脳死したホームレスから金銭的に余裕のある人への臓器移植は有るが、其の逆の例は絶対に起こらないのです。
人は生まれたときから「もう助からない」のです。必ず死にます。だから、「もう助からない」は臓器摘出の理由にならないことは自明です。
個体死だと断定できない人間の臓器を摘出すれば、間違いなく個体死に至る。本人が臓器提供を望んでいれば、医者および社会の多数が脳死者を確実な死へ突き落としてもよいのか?
なるほど、川で溺れている子供を救出しようとして自らの生命を懸けて子供を救出し、その代わりに自分が溺死するということは違法ではない。むしろ、飛び込んだ人間の判断を責めることは誰にもできない。
しかし、これは、あくまでも子供と救出者の2者間のことであって、救出者の自己判断の問題である。
臓器移植の場合に、救出者(ここでは臓器提供者・ドナー)と子供の2者の問題ではない。ここには、第三者が介在しているのである。この特殊性が論点なのだ。
まだ個体死していない人間の臓器を取り出す第三者である医者の行為および、その医者の行為を容認し、賛成する社会の意識の合力が、脳死者という1個の人間の生命を確実に断絶することになるのである。
溺れた子供を救出する尊い行為と脳死・臓器移植によるドナーの行為は同列であるが、脳死・臓器移植の場合では、第三者である医者および社会の合意が介在するのである。この特殊性を見落とすと誤った判断になるのではないか?
本人の同意も不要で脳死を人の死とするようなA案が成立すれば、どうなるであろうか?
A案は家族の同意を前提しているというが、A案の秩序に従えば、判断に迷う家族が現場では大部分であろうから、結局は、医師の判断に任せるということになり、脳死者の臓器は、医師の判断で摘出されることになるであろう。
今は、本人の同意が不可欠となっており、ドナー登録者も少ないから臓器移植は進まない。
しかし、A案が成立すれば、先に述べたように、家族の同意が必要だといっても大部分の家族は判断できないわけで、「わからない」ということになり、結局は「先生に任せます」ということになりはしないか?
そうなると、本人の同意もなしに、まだ生きている脳死者の臓器を摘出することになるのである。
これは、もはや、川で溺れる子供を救出して死んでしまうという自己判断による「美しい」死というレベルの立論としても成り立たない。
川で溺れている子供の救出を迷っている人間に対して、第三者である人間が川へ突き落とし、その結果、救出者が死亡し、子供が助かるということと同じレベルになる。
突き落とした人間の行為は殺人罪が成立し、子供が助かったからという結果、子供を助けたかったという動機があっても、絶対に許されない殺人行為ではないだろうか?
極端な例をあげれば『人は必ず死に』生まれたての赤ん坊でも何時かは死にますが、
脳死宣告された患者は人工呼吸器を外せば否応無く死ぬが、適当な医療を行わなければ短時間で必ず死ぬ重症患者は大勢います。
脳死者は『脳が死んでいる』ので自己統一性が無いとか、自我ないとか言われていますが、其れなら脳幹だけが生きている植物状態や大脳が欠損して生まれてくる無脳症児も自我があるとも思えない。
この問題に関してお玉さんの所のコメント欄で、ある人が『脳死というのは、考える事も出来ず、機械が無ければ呼吸すらも出来ない状態です。
私がそんな状況になれば、とっとと殺して臓器移植して欲しいですよ。』 と語っている。
自分は『脳が死んで自我が何もない状態で身体だけ生きている状態が耐えられない』という意見ですね。
また愚樵空論では別の人が『・・脳死となり、どんな最新の治療法でもその回復の可能性が全く無い事が確実だと確認・納得できたなら、心臓がパルス信号で無理矢理にでも動く内に、臓器提供を希望します・・』と表明していた。
これ等は、案外健康で若い人なら大概の人が多かれ少なかれ考えている事ですよ。
例えばスポーツ選手なら競技で大怪我をして半身不随に成れば生きて居たいとは思わない。
しかし生まれつき半身不随ならどうするのですか。?
死を実感していないから簡単に明確な答えを出せるが、終末期のがん患者が同じ様な考え方を出来るでしょうか。?
たとえ健康な時にドナーカードを持っていても、本当に自分が死につつある状態でも同一でいられるだろうか。?
ただしこの様な病人の臓器に対しては移植関連業者は何の関心も示さない。欲しいのは健康な臓器なのです。
これは(自分は滅多な事では脳死のドナーにはならない事を知っている)強者の傲慢ですよ。
生と死。人間とそれ以外。
簡単に別けれる様で、よく考えて見ると難しい。
生と死は連続したプロセスで、死の無い生は無いし、生の無い死も無い。
基本的に生死の完全分離は無理なのです。
脳幹だけが機能していて自分で考える事が出来無い植物状態や最初から大脳小脳が無い無脳症児はコメント氏の考えでは『とっとと殺せ』に成りかねない。
脳が機能していれば生きている事になるのか。?
屁理屈を言えば、脳が無くても生きている生命体の方が地球上に多くいますよ。
物事、今回の臓器移植法のように厳格に別けれない。
人と人以外だって考え方は色々です。
アメリカのキリスト教原理主義者たちは『受精卵は人』と定義して、妊娠中絶を行った産婦人科医を殺しています。
受精卵を1個の人類の個体とするのは客観的で科学的なのであるが、そうであれば、産婦人科医の生命も1個の人類の固体としての生命であって、これを銃殺することは矛盾以外の何者でもない。完全に自我の肥大化を示した宗教の独善性が発揮されている。
科学的には、人類の個体としての生命は受精卵から始まり、心臓停止、呼吸停止、瞳孔散大の後、何十時間の間、霊安室に存置し、回復しない場合に、個体死として確定する。
人間の個体死、不可逆的な点は必ず存在し、人間は必ず個体死するのであるが、その時点が問題となっているのが、脳死問題である。
脳死状態は死の3兆候に先立って現象するのであるが、脳死状態に先立って、死の3兆候が現象することはない。要するに、脳死とは、個体死の臨界点、不可逆的な点、個体死の時間的な点を早くしているというのが事実である。
端的に言えば、「早く死になさい。ただし、臓器の提供を待っている他人のために」という自己犠牲を社会的に強制することに他ならない。
脳死状態であって、延命治療を続けても人間である以上、必ず死の3兆候基準を満たす時は来る。その時点を持って、個体死を迎えるのが人間の生である。
いわば、脳死状態から3兆候基準を満たすまでの間、生から死へのプロセスは、この世に生まれてきた人間が三途の河をゆっくりと歩んでいく道程である、と言える。
三途の河を渡る人間の生から死への道程を生のある現役の人間が治療し、看病し見送るのが科学的なヒューマニズムであろう。
脳死の人間に対し、「もういいだろう。早く死になさい。あなたは自分だけで生きることができないのだから」というとんでもなく冷酷な思想の源泉はどこにあるであろうか?
これは猛威を揮った新自由主義の考え方の典型である『アメリカで行われているので日本でも』というグローバルスタンダード(世界基準)の医療版ですよ。
『脳死は一般的な人の死たり得るか』
そんなことは大嘘ですよ。
欧米や日本の様に医療技術は発達して救命機器が完備しているから『脳死』が発生する。
医療が遅れている第三世界では脳死なんか初めから起こるはずも有りません。
今の最新医学では救命は出来ても治療は出来ない(技術革新と、その進歩の限界の)結果生まれたのが脳死です。
脳死を人の死とする欧米の死生感は、キリスト教的な一神教の独特の、肉体は「塵から生まれて塵に帰る」ものにすぎず一段劣る存在でしかなく、(宗教的に)必ず滅びる肉体ではなく不滅の霊魂(変わらない自我)だけが大事であると考える霊肉二元論的な宗教観が根底に有る。
それで欧米では、変わらない自我が無くなった(脳死した)肉体は無価値で、脳死移植のように廃品利用しても何ら道徳的な問題は発生しない。
しかし。この考えは、体と心は一体と考える日本人の道徳観・宗教観・世界観には馴染まない。
脳死移植がアメリカで年間数千例で日本が二桁に達しない事情(12年間で81例)は、一神教とは違う日本人の根本的な死生感が有り、法律が成立したからと言って劇的に変化しないでしょう。
この欧米の世界観・宗教観は容易に『優生学』に繋がります。
優生学はヒットラーのナチズムや強制収容所やユダヤ人大虐殺やホロコーストで有名ですが、何もドイツ一国が優生学を推進していた訳では有りません。
今、優生学と言えばユダヤ人大量虐殺を正当化した学説としてドイツで流行った『間違った科学』であるとする考え方が主流ですが、どうも事実は違うようです。
先ず『ドイツで』が誤解で、『欧米のキリスト教圏で流行った』が正解らしい。
アメリカでは『優生学』による強制断種法や有色人種との婚姻を禁止する法令が色々と作られている。
間違った学問(擬似科学)も間違いで、『優生学』は家畜の改良の実績を哺乳類の人にも応用した学問なので、(人も牛や犬も哺乳類としては同じなので)学問的には正しい(ニセ科学ではない)が、道徳的に間違っていたのです。
ご存知の様に、優生学とは社会ダーウィーニズムと関連が有りダーウィンの進化論の弱肉強食・適者生存の考え方を 社会や人類にも適用した恐るべき学問(科学)です。
しかし、生物科学として問題を立てたとしても、社会ダーウィニズム、ナチズム、アメリカの人種差別などは、非科学だと断定できます。
生物科学が示す知見によれば、生物の種が異なれば独自の次元を持った法則が存在するというわけです。生物種の階層性、次元性というものです。
では、生物種というものはどのような基準で生物科学は区別しているであろうか?
それは生殖です。人類と他生物を決定的に区別する客観的な根拠は生殖できるかできないか、にあります。
黒人、白人、黄色人、多様な民族は、人類として同一種です。これは生物科学の示す客観基準に従った場合、そうなります。どんな人種でも、どんな民族でも、互いに生殖可能だからです。しかし、99%のDNAが一致するチンパンジーと人類では、どうあがいても超えられない壁がある。人類とチンパンジーは、互いに生殖できない。ゆえに、人類とチンパンジーは質的に異なる種族となります。
これが生物科学の示す客観性です。
生物科学は明確に人類とその他の生物の区別の基準を示しているのです。
しかし、この生物科学の示す基準、すなわち、生物の種が異なれば独自の次元を持った法則が存在するというわけです。生物種の階層性、次元性を無視した理論と行為、したがって、非科学的で超人類的に肥大化した妄想が悲劇を起こすわけです。
他生物の種族を支配している法則、それぞれの生物種が独自の次元で生き残りを賭けた法則に生きるという中で、人類も一つの生物種として生きている。
それぞれの生物種は独自の生き残り戦略を持った存在であるが、例えば、チンパンジーと人類を同列視し、チンパンジー種の法則を人類種へ適用する理論と行為は、事実としても論理としても完全な誤りを示している。
チンパンジーと人類は事実として生殖不可能であって、違う種族である。同時に、チンパンジーと人類を同列視するという還元主義、次元性、階層性という論理においても誤りを犯している。
こうして、誤った思想とは、非科学であるといえ、誤った道徳もまた、非科学なのだと言える。しかし、道徳という場合、外面的な行為を指す場合ではなく、内面的な思想の自由を指す場合があるのであるから、思想・信仰の自由を認める限り、内面道徳としては、社会ダーウィニズムも容認する必要がある。
しかし、社会ダーウィニズムが外面化した場合において、もはや、そのような行為を容認することはできない。そのような行為も容認するというのであれば、そのことこそ非科学、無道徳だと言えるのである。
道徳の二面性とは、内心としての道徳と外形的に行為として存在する道徳という意味なのであって、道徳とはよくわからない科学とは無関係なのものということでは決してない。
道徳と科学を区別しなければならないということの意味は、内心・内面にとどまる限りは、非科学的、無道徳的、モラル・ハザード的に、何度でも殺人を犯してもいいという意味なのであって、外形上の行為としては、科学が規律するのである。
そこで外形上の行為を規律する科学とは何か?と問いを立て直すことが道徳の科学性となる。
まず「科学」と「非科学」を分けるという二分法で,既に前提が間違っています.数学や物理学も含めて,ある程度専門的に突き詰めていくと,この二つの間にはボーダーラインがあり,そのボーダーラインを決めているのが「論理性」だということが分かるのです.
逆に言うと,アメリカの福音教会がカトリックよりも原理主義的になったという側面も,「信仰」に論理性を認めるか否か,つまりカルトを「信仰として受け入れる」かどうかという問題に帰結します.これは一神教かどうかという問題とは関係なく,総ての信仰や「科学」で起こる事象であり,人々が「論理性」を失った時,原理主義が台頭するのです.
初期のカトリックで新約聖書が編纂された時,まず重要視されたのが旧約聖書との論理的整合性でした.イエスの発言つまり福音書を細かく精査し,どこが旧約の引用なのか,どこがイエスの独自の発言なのかを,聖職者たちがしらみつぶしに調べたのです.その時に使われたのがギリシア哲学であり,論理学だったのです.論理性を持たない宗教はカルトになるということを当時の聖職者は既に知っていたのです.
これ以上突っ込むと,ブログ主さんに長すぎると怒られるのでやめておきますけど.(^_^;)
『水からの伝言』のようなニセ科学?は明確に間違っているので『間違いで有る』と断定出来るが、『悪で有る』とまでは断定出来ない。
それでは優生学は如何であろうか。?
人種を『人の種』であると誤解して、かってのナチスや60年代のアメリカでは異人種間の性交を禁止する法律や強制断種、人種隔離政策が流行っていたが、これ等は明確に非科学的です。
何故なら人種は『人の種』ではなかったからです。
3万年前には(科学的)異人種であるネアンデルタール人も共存していましたが、いま現存する人類は我々ホモ・サピエンスただ一種しか地球上に残っていません。
それでは『優生学』の人類の品種改良は出来るのか。?ですが、この答えは『人類も哺乳類の一種』なので(学問的には)間違いなく成功します。
優生学は『ニセ科学』ではなく、科学的には正しい(正しい科学?)ですよ。
ただ道徳的に判断して、正しくない。
この『科学的正誤』を『科学的善悪』に誤解(変換)しているような例は、
菊池誠と其の信者達の『ニセ科学批判』グループの間違いと同じものです。
世界最初の核爆弾を開発したマンハッタン計画に参賀した科学者たちは、決してニセ科学に関係していたのではなく『正しい科学?』の第一人者揃いですよ。
原子爆弾は『正しい科学?の理論と技術』なくして決して生まれるものではない。
原子爆弾は科学的には正しいが、道徳的には完全に間違っている。
ニセ科学は、信じる関係者だけに災難や迷惑が降りかかりますが、正しい科学では(科学は普遍性があるので)信じる信じないにかかわらず全ての人々に災難が降りかかる仕組みになっています。
今の西欧近代科学は200年ぐらいの歴史しかなく、それ以前には宗教や哲学や錬金術や占星術なんかと共存していた。
科学が、古くギリシャ文化の紀元前まで遡れるとする考え方は、金持ちになった韓国人が先祖の系譜を数十代前まで遡れるとするのと良く似ている。
錬金術や占星術や占い師から科学が派生してくる。今の韓国人の半分以上が『先祖はヤンパン(両班)である』とする家系図を持っているとの話も有りますが、これでは貴族ばっかりだった事になる。
今では出世して『科学の権威』は何ものにも脅かされない最高権威なのですが、昔からそうではなく其の出自は卑しい。
日本なら、江戸時代の桜吹雪の遠山の金さんがもてはやされ『昔ヤンキーをしていた先生』とか『暴走族上がりの弁護士』なんかは逆に信用される。
外国では、『昔の恥』は『今でも恥』らしく何とか隠そうと必死に努力している。
全ての事柄に言えることですがボーダーラインがあり完全に二分出来ない。
「科学」と「非科学」を分ける時にも当然曖昧な部分は生まれる。
『生』と『死』にも曖昧なボーダーラインは有って当然で、人の命の重さを考えると、今回の一律に『脳死は人の死』は余りにも乱暴な考え方です。
科学は普遍的全ての物事の『正誤』の判定が出来るが、『善悪』の判定までは出来ないし、たとえ出来たとしてもすべきではない。
何故なら科学の判定は『普遍的』で有るから(内心の自由に係わらず)全ての人に影響する。
科学で善悪は判断できない。
善悪を判断するのは個々の世界観(哲学)や宗教観です。
既に述べましたが、どんな人種でも、どんな民族でも、どんな能力格差が生まれながらにあっても、同じ人類であって、生物科学上、同一種だからです。
民主主義=善悪決定権を諸個人に絶対的に保障しなければならない客観的、科学的な根拠は、天賦人権説などのような宗教的、非科学的な論拠、主観的な社会合意などではなく、客観的で科学的な生物科学を根拠とします。
ゆえに、100人中99人が宗教的な世界観、社会の多数合意が、どれだけ民主主義、つまり、善悪決定権は諸個人の平等に存在しているということを否定しても、科学的、客観的、普遍的には社会科学として民主主義を絶対に擁護し、民主主義の社会科学上の根拠、つまり、生物科学上の人類は同一種であるという客観性、科学性を対置する必要があります。
このことを押さえていない非科学的な善悪論、道徳論は、独裁制、全体主義といったような社会科学否定の主観的観念論、宗教論へ帰結します。
こうして、道徳論、価値判断の基準は、社会の多数意識、社会の合意などではなく、人類普遍の科学的な原理を基準にするということが道徳の科学性、価値判断基準の科学性、法律解釈論の科学性となります。
道徳の内面性については絶対的に保障、擁護しなければんらないということの根拠も述べました。
しかし、社会科学は道徳の外面化としての行為を規律し、客観的に判定、審判する基準です。
人殺しは社会科学としては絶対に認めてはいけない人類の道徳行為基準です。道徳には科学的な普遍性があります。しかし、内心・内面道徳としては何度でも人殺しをしてもよい。内面道徳は絶対的に保障することが人類平等の科学です。
追記:人類を品種改良して、例えば、遺伝子治療で生まれながらの障害を治していくということであれば、社会科学ですよ。しかし、導入するにあたっては、民主主義国なのだから、遺伝子治療という社会科学、自然科学についての合意を形成し、社会科学・自然科学としての遺伝子治療を法制化していく手続きが絶対に必要です。
これが社会科学を基礎とし、道徳の科学性を基礎とする民主主義論です。社会科学が先にあって、民主主義(善悪決定権の平等)があるのであって、無基準、非科学的な民主主義論は独裁制、全体主義へ転化します。
今回の脳死・臓器移植の問題でいえば、社会合意が存在していたとしても、「脳死を人の死」だと断定する行為は、非科学的であって、科学的な道徳論としても完全に非科学的で無道徳であるし、まったく生命倫理としては誤った社会合意、主観的な善悪論です。
裁判所が脳死・臓器移植法の適用について、憲法違反である、という価値判断を倫理的、道徳的に自発性を持って客観的、社会科学的に判決する違憲法令審査権を発動したとして当然の問題だと思います。
人類の殺し合い、戦争の本能など存在しないと断定することが科学ですよ。ゆえに、人類の殺し合い、戦争行為などというものは、どんな時代でも非科学的であって、戦争、殺し合いに普遍性など客観的には存在しません。
人類史の時代において、特殊的に存在するというのが戦争、殺し合いです。
ですから、人類社会から戦争、殺し合いを消滅させる普段の努力は完全に客観的、普遍的な科学に基づいているのであって、諸個人の主観的な願望でもなんでもありません。
原子爆弾、戦争行為が存在する必然性、したがって人類史における特殊性はどこにあるか?これを発見したのが社会科学であり、人類の普遍的な科学的法則は原子爆弾、戦争行為を最悪のものであると判断していますし、そのような道徳的、倫理的な判断には客観的な基準、根拠があります。
殺し合い、戦争行為が善か悪か、わからない。道徳的か倫理的かは、わからない。したがって、時代の多数意識あるいは、独裁者が決定するしかない、というような意見は、結局は、道徳の基準というものは時代の多数意見や独裁者が決定した内容ということになってしまいます。
このような道徳論、倫理論は無道徳の典型であって、道徳の科学性、倫理の科学性を認めない価値相対主義へ帰結してしまいます。
このような道徳論、倫理論を基礎とする学校教育などを受ければ、子供たちはどうなるでしょうか?
結局は、自らの道徳的判断、倫理的判断について、基準が存在しないということになり、「上に従う人間」あるいは、社会の多数意識に従い、空気を読んで「民主主義」という名の全体主義に従う人間に対して、能動的、積極的に社会科学上の倫理・道徳行為を対置して、社会科学を手段に人類社会を変革していく主権者にはならないのではないでしょうか?
したがって、戦争・原子爆弾を無くしていくような主権者の平和運動だけが唯一の社会科学であって、憲法9条を完全に実現していくことが主権者としての道徳基準、倫理基準であるという道徳教育について、あやふやな態度になるではないでしょうか?
人類は生物科学上は戦争、殺し合いをする必然性を持つ存在であるだとか、生物科学上は戦争、殺し合いをする必然性を持っていないとまでは断定できない、とするような理論は非科学的ではないでしょうか?
人類は生物科学上、殺し合いをする存在とまでは言えず、殺し合いをしない存在とまでも言えない。要するに、殺し合いをするかしないか、戦争をするかしないか、という判断の科学的な基準は存在するか、しないかは、わからない。
ゆえに、イラク戦争も原子爆弾も諸個人によって、科学的だとも非科学的だとも言えるのであって、イラク戦争が科学的か非科学的かを判断する客観基準は存在しないし、原子爆弾を製造する行為が善か悪か、道徳的かそうではなか、倫理的かそうではないか?
このような判断をする基準として科学的な基準は存在するとまでは言えず、存在しないとまでもいえない。
したがって、戦争行為、原子爆弾製造が反倫理なのか?反道徳的なのか?それは諸個人の判断そのものが道徳であり、倫理である、ということでしょうか?
これは道徳・倫理の自発性を尊重する限りで完全に正しいのですが、戦争や殺し合いについて、「君たちの判断に任せる」というのは、あまりにも無責任、非科学的ではないでしょうか?