不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

日本の土下座選挙。謝罪と責任の関係

2008年05月18日 | 文化・歴史

日本の選挙では不思議なモノが幾つも有る。

ポスターの公営掲示場なんてものも、世界的に見ると可也珍しい。
何しろ公営掲示板以外に選挙ポスターを張ると選挙違反となる国は先進国では日本だけだろう。(後進国でも多分無いはず)
政策も演説もしないで『名前の連呼だけ』なんてものは先進国では日本だけである。
外国でも名前の連呼も少しは有るだろうが、選挙を連呼だけで済ましている先進国は日本だけ。
しかし何と言っても日本の選挙で一番の特殊なのは『土下座選挙』がであろう。

土下座とは、地面に直に坐り、平伏して座礼を行うこと。
日本の礼式のひとつで、極度に尊崇高貴な対象に恭儉の意を示したり、深い謝罪、お願いの意を表す場合に行われる。

日本人の生活意識では、土下座が日常の行動から大きく逸脱しているために、それだけ並外れた恭儉・恐縮の意を含む礼式であると解釈され、昔から相手に土下座をして謝ることで、大抵のことは許してもらえる風潮があった。




『土下座選挙考』

一般社会では、たとえ芸能界でも、やしきたかじんがテレビバラエティ番組で「味の素がない」と因縁をつけてスタッフに土下座を強要して暴行し軽傷を負わせた事件では、問題化して朝日系テレビ局に出入り禁止になったように、一般的でない。

しかし日本の選挙では土下座は連呼同様に、外国では例がないが日本では定番の行為とされている。
日本では、選挙時に有権者に土下座をして自分への投票を呼びかける光景がよく見られるが、必ずしも有権者を尊敬している訳ではない。
ましてや、謝罪している訳ではない。

土下座といえば。小泉チルドレンが有名だ。態度が横柄、超タカビーで有名な片山さつき氏も土下座している
「新大臣高市早苗の土下座事件」なんてのも有る。
高市早苗氏によれば、
日本の保守系政治家が選挙時に有権者の前で土下座することを侮蔑していた。
しかし初めての選挙の時、後援会長に「土下座するのが当たり前」と促され、感極まった弟が土下座をすると、涙ぐむ有権者の万雷の拍手の中、姉弟土下座をする。

しかし「あたしたちの前で、土下座したんだからね!」と有権者は土下座で味わう優越感と高揚感と引き換えに、何か、一番大切なもの(民主主義の精神)を失っていく。
絶対的権威に服従します、恭順します、と態度で示すのが土下座ですから、これが政治の世界に持ち込まれるのは民主主義じゃない。
候補者にとって、いっときの土下座さえ辛抱すれば、あとはバラ色。

有権者はそこまでの気持はなくて単に、土下座までするとは(偉い先生が)かわいそう・・・(だから助けたい)となるのかも知れない。
無敗だった山口二区補選で、自民党山本繁太郎氏が敗北した原因は、エリート官僚の為に土下座しなかった(仕方が足りなかった)ためと言う説も有るらしい。






『謝罪では無い、土下座』

日本の選挙では幾等でも有って、外国には絶対無い土下座の不思議な風習。
『絶対的権威に服従します、恭順します、と態度で示すのが土下座』の筈です。
私もその様に感じていたのですが如何も違うようです。
例えば政治家が有権者に対して土下座したとしても、絶対服従する筈はありえません。

『土下座のような恥ずかしい事をするのだから罪や罰、責任を勘弁して欲しい』
日本人の土下座にはこんな意味が有るのでしょうか。?
全く恥ずかしい限りです。世界に通用する論理では有りません。

日本では抗議や非難や責任追及には直ぐに謝罪します。
しかも謝罪は責任を認めた事には成らない。
然し諸外国では謝罪と責任はセットに成っており、謝罪すれば当然責任を追及されます。
日本で行われている謝罪も土下座も、責任を感じての謝罪の意味の土下座では無く、その反対の責任逃れの為の不思議な代物です




『謝罪するのが日本文化』

育児の段階で、つべこべ言わずにとにかく『ごめんなさいを言いなさい』と教えるのは日本の伝統的育児方法、教育方法です。
ワシントンとサクラの木の話は真っ赤な嘘、作り話らしい。
日本以外は無責任に謝りません。
個人の失敗を簡単に認めません。
ユーラシア大陸では西は行くほど謝りません。インドより西では絶対と言って良いほど謝りません。
いくら自分が悪くとも謝らなかった小泉純一郎は有る意味国際基準だったのでしょうか。?
村山談話,河野談話を政府が認める以上は個人補償は必然です。
村山、河野両氏や日本政府ともに其のことに気が付いている様子は全く有りません。
護憲派でも其のことに気が付いている人達は意外と少ない。






『謝罪と賠償』

罪を認め謝れば、当然賠償責任が生じます。
従軍慰安婦を認めて謝罪した河野談話や戦争責任を認めて謝罪した村山首相談話のその後には疑問を感じています。
国際的な常識では、賠償責任なき謝罪は謝罪とは言いません。
中国韓国の不満は、靖国や歴史問題だけではない。
彼等にとっては当然謝罪が有ったのだから補償も有ると考えても不思議ではありません。
個人補償に応じて日本の戦後処理を終わらせる必要が有るでしょう。
土下座文化も彼我の文化的な責任と謝罪の関係と取れば幾等かは理解が出来ます。
普通外国人は責任と謝罪は不可分の関係と考えています。
日本では責任追及を逃れる為に、土下座して謝罪する例も有るようです。
謝罪すれば責任を免れると考える日本人は多くいます。






『謝罪と賠償はワンセット』

欧米の契約社会では謝罪と賠償はセットになっています。
このことは国際的な常識では、説明するまでも無いことらしい。
レーガン大統領が日系人強制収用を謝罪すると共に、同時に個人賠償を行っている。
しかし、日本は河野官房長官が政府を代表して『河野談話』を発表して従軍慰安婦に対して公式に謝罪しました。
ところが民間基金で幾らかの補償をしたが、政府の公式な個人補償には応じていない。
これでは当然謝罪が有ったのだから、国家による個人補償が有ると思っている元慰安婦が怒るのは当たり前ですよ。
罪と罰。謝罪と謝罪に対する責任(補償、賠償)に対する基本的な認識が、日本人に欠如している証拠ですね。





『罪と罰』

『罪を認めれば、当然に罰が待っている。』
『謝罪すれば、必ず賠償しなければならなくなる。』

今カラマーゾフの兄弟が流行っているらしいが、読者のみんなは上記の原則論を完全に理解して読んでいるのだろうか。?
ドストエフスキーの小説は昔読んだが、当時は意味が良く分からなかった。
あれは、宗教小説ですよ。
相手が怒っていれば、自分が悪いと思わなくてもとりあえず謝って揉め事を円く治めるのが、日本人の道徳観です。
ドストエフスキーの小説の根幹部分、キリスト教的な『罪と罰』の原則を理解せずに読むと、全く意味不明な結論へと導く。
日本人の中でも、日本的謝罪感と、一番遠い人たちは権力(強制力)を持っている人たちですね。
例えば警察官。検察官。国税庁職員など、この人たちは絶対に謝りません。
官僚も謝りませんね。
『謝る怖さ』を知っているのでしょう。





『一度でも謝罪すると地獄が待っている』

一般の国民の中でも、一部の人たち(解放同盟)は、この事実(罪と罰の原則論)を知っている。
解同は、矢田事件を起こす前に、市長とか教育長、警察署長なんかを標的にして、大勢で自宅を取り囲み、『謝れ』と『謝罪』を要求し続けた。
相手が謝罪するまで、何日でも何週間でも、何ヶ月でも『差別は悪い』『謝れ』と繰り返すわけです。
確かに「差別は悪い」。
この時すべての人(市長や教育長、教育委員)が、謝ったら円満に、まるく収まると最期には考えて、謝ってしまう。
ところが相手が解同では、そうは行かない。
一度でも謝ると、今度は其れをネタにして、最期まで一生謝り続けさせられる。
39年前の矢田事件では、解同に恫喝された教師たちが原則論(世界基準)を貫かず日本人的な揉め事の対処法である、『とりあえず謝って』其の場を脱出しようとしたことが最期まで祟って、一審判決では『謝罪している事実』を理由として敗訴するし、其の後8年間にわたって職場から追放される。
うっかりと、一言『スミマセン』と言っただけで8年間ですよ。

解同活動家集団の引き起こした、水騒動を簡単な疑似科学対道徳の対比みたいに捉えても事実は見えてきません。
根本的な「罪と罰の原則論」を理解しないと駄目です。
罪と罰の、国内ローカルルールと国際ルールの違いを明確に知っているのは、日本国内では、解同の同盟員と警察官、税務署員ぐらいでしょう。

コメント (11)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 山口県でみる自民党政治の終焉 | トップ | 破壊的カルトのネガティブキ... »

11 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
しかし……(^^;) (kaetzchen)
2008-05-18 20:42:51
公明党=創価学会の信者の家の壁には,必ず「公明党」ポスターが貼られてますよね.あれって,選挙前の選挙運動に当たるんじゃないかな(笑)

最近は民主党もようやく本気になったらしくて,特に国道や県道沿いに,べたべたと民主党候補のポスターが貼られるようになりました.彼はショッピングセンターへ駅前から送迎する無料バスにも乗り込んだり,ショッピングセンターのバス停で待ち構えたりして,一生懸命慈善運動(笑) 小沢氏の命令,恐るべし.

返信する
『罪と罰』 (kaetzchen)
2008-05-18 20:43:30
ブログ主さん,こんにちは.

| 日本で行われている謝罪も土下座も、責任を感じての謝罪の意味の土下座では無く、その反対の責任逃れの為の不思議な代物です

私もそう思いますね.典型例が,毎日放送が長年流している「水戸黄門」でしょう.佐々木助三郎と渥美格之進が「控えおろう,この方を誰と心得る……」と言って印篭をかざすと,助さんと格さんに重傷を負わされたはずの俳優も全て土下座をする.昔,中国人や韓国人の留学生が,あれだけは理解できないねぇ,と言っていた.関西では朝日放送と毎日放送が最初に民放を始めたので,関西人に受け入れやすい時代劇が多いんだよ,と説明すると,確かによみうりテレビはちょっと東京っぽいねとの話.


| いくら自分が悪くとも謝らなかった小泉純一郎は有る意味国際基準だったのでしょうか。?

どうでしょうね.彼は祖父から三代続く横須賀のヤクザの家系ですから,暴力団やヤクザの礼儀として,謝ったら命がないということを経験的に知っていたとも言えるんじゃないかしらん.他の国会議員でも,暴力団出身の自民党議員の麻生とかはやっぱり土下座は最低限にしかしないそうですよ.自分の子分に謝るとは何事かという教育を受けたのでしょうね.


| ドストエフスキーの小説は昔読んだが、当時は意味が良く分からなかった。
| あれは、宗教小説ですよ。

そうですよ.あとになって分かったのですけど,トラックバックした今日の記事の中で飛び降り自殺をした先輩がどうしてドストエフスキーを聖書と一緒に読めと言ったのかが当時はまだ幼すぎて分からなかった.死を直前にした先輩が自殺という形を取ったのは,若しかすると『罪と罰』にあったのかも知れません.
返信する
1960年代のアメリカの西部劇と (ブログ主)
2008-05-19 10:02:33
「水戸黄門」は劇の構成が非常に良く似ている。
小さな田舎町の地域ボスの悪徳牧場主&悪徳保安官(悪代官)が市民(町人や百姓)を虐めて暴利を貪って苦しめているのを、流れ者のガンマン(水戸黄門)が超法規的な手段を使って悪者達を懲らしめて、市民達を助け、そして何処とも無く去っていく。
善人、悪人、懲らしめるガンマン(水戸黄門)の設定が何時も何時も配役が変わるだけで全く一緒です。
違うところは、超法規的手段(暴力)で揉め事を解決する主体が西部劇ではガンマン(権威や権力とは無縁)だが水戸黄門は天下の副将軍で権威や権力そのもの。

ドラマの最初では、主役のガンマン(水戸黄門)は話し合いで揉め事を円満解決し様とするが、街を支配する悪役が暴力に訴え無実の市民が虐殺される。
そこで、ガンマン(水戸黄門)が暴力で超法規的解決を図るわけです。
似ている様で根本的に違う。
一介のガンマンが暴力を揮う(法を守らない)のと、権力(水戸黄門)が法を守らないのとはい意味がまるで違うと思いませんか。?
権力が有る上に立つものが法を守らないで如何しますか。?とんでもないことですよ。

イラク戦争開戦時にジャーナリストが、ブッシュ政権首脳達を皮肉って、面白おかしく西部劇のガンマン達に描いたイラストを作ったら、怒るどころかブッシュやラムズフェルドはポスターを欲しがったそうです。
アメリカのイラク戦争は、西部劇ではなく水戸黄門に描くべきでしたね。
返信する
ドストエフスキーに出てくる人々は (ブログ主)
2008-05-19 10:21:11
宗教的人物は余り出てこない。主人公は神を完全には信じていなかったり、神を無視したりする。
それどころか宗教(キリスト教)を信じていない人物達が大勢出てくる。
日本人が読むと、直接的な聖書の解説みたいな場面が無いだけに宗教小説であることに気付かない。

罪と罰の話に戻すと、日本人的には善悪の判断は色々な解釈が出来て当たり前で、唯一の正義なんて考え方にはなりにくい。
しかし一神教的には『唯一の正義』は成り立つ。
日本人でも、法の執行官は例外で『唯一の正義』の原則の上に立っている。
それで、日本人一般は自分の罪を認めていても認めていなくても、気安く適当に謝罪する。
対して、警察官や検察官、国税庁職員等の法の執行官たちは、厳格に原理原則を守り、絶対に謝らない。
返信する
現実と表面の違い (kaetzchen)
2008-05-19 14:19:07
 ブログ主さん,こんにちは.ドストエフスキーについてですけど,

| 宗教的人物は余り出てこない。主人公は神を完全には信じていなかったり、神を無視したりする。
| それどころか宗教(キリスト教)を信じていない人物達が大勢出てくる。

 当然です.彼は最下層の貴族として生まれ育ち,極めて庶民に近い生活をしていた.だからこそ,ロシア社会の本質が見えた.東方正教は政教一致,だから表向きには信徒であっても,庶民や下層貴族は広大な国土の中で村単位の生活をしていたため (当然,農奴から搾り取る作物や家畜もわずかだ),村によってはカルトに染まっていたものもあるだろう.そういった現実を彼は暴露したのではないでしょうか.

 チェーホフもサガレン島 (サハリン) 旅行をした後は自分の属する貴族社会よりも,医師として出会った庶民や農奴や囚人たちを描いた作品を書いています.彼らは当然,キリスト教なんかには依存しない,なぜなら宗教者も役人もいないからだ.一度,ロシア正教の教会を訪れると分かるでしょうけど,門の前には「信徒以外立入禁止,ここは観光地ではない」という看板が立っています.そういう意味では非常に排他的なのですね.救いを求める者は誰でも受け入れるというトルストイの理想論と現実は全く逆なのです.ドストエフスキーの素晴らしさはそういう現実暴露にあると思います.結果論としてはブログ主さんの言われる通り,ドストエフスキーもチェーホフも聖書にすがるしかなくなってしまうのですが.


| 罪と罰の話に戻すと、日本人的には善悪の判断は色々な解釈が出来て当たり前で、唯一の正義なんて考え方にはなりにくい。
| しかし一神教的には『唯一の正義』は成り立つ。

 こういう考え方を持ち込んだのがアニメ映画でしょう.戦前も技術的には素晴らしいアニメが造られたが,そのテーマは皇国の民として天皇制という一神教に殉じる「唯一の正義」に過ぎなかった.戦後もウルトラマンなどの形で実写・特撮・アニメが高度経済成長期のテレビを賑わせた.ところが戦前の戦争アニメでは兵隊は誰も死なない.のらくろも出世するばかりで被弾しても死にはしない.戦後のウルトラマンでは怪獣が東京の街にやってきて,なぜか3分間だけウルトラマンが闘うが,怪獣と闘う際には同じく東京の街を壊すばかりで,怪獣をやっつけるなり,自己満足に浸って太陽へ向かって飛んでいく.無惨にも壊された東京の街は復興されないまま,また来週には見事に立ち直っている.あのジオラマを毎週造っていた職人さんには頭が下がる思いだ.これもやはりウルトラマンが「唯一の正義」という刷り込みをして,玩具や絵本を売るための装置なんでしょうね.


| 日本人でも、法の執行官は例外で『唯一の正義』の原則の上に立っている。

 その辺は警察庁に居た祖父の話だと,いろいろと汚い話が出て来まして,もと警察官僚の政治家はこんな悪い奴だなどと悪口を聴かされたものです.田中角栄が建設業界からワイロをもらうなんて可愛いもので,悪い奴はもっといる,と怒っておりました.戦前の若い頃に犯人を捕まえた際,科学鑑定でシロだ,つまり冤罪だという報告書を出しても,現場の検察官に破り捨てられたことは何度もあると…….特に政治犯の場合には特高に脅されたこともあるそうな.それで戦後,祖父は心を鬼にして,出世街道を歩いたのだそうです.

 そういえば,昨日書いた私のブログですけど,「自殺」という言葉が多用されたせいか,goo 当局によってトラックバックの規制が行われたようです.こういう所から既に言論の自由がなくなって来ているのですね.
返信する
西部劇も時代によっては (kaetzchen)
2008-05-19 17:12:04
 ブログ主さん,こんにちは.仕事が入ったので続きが後まわしになりました.

| 違うところは、超法規的手段(暴力)で揉め事を解決する主体が西部劇ではガンマン(権威や権力とは無縁)だが水戸黄門は天下の副将軍で権威や権力そのもの。

 ただ,西部劇も細かく見ていくと,ガンマンはアル中親父だったり,バッジを隠した連邦保安官だったりする.前者で言うと「キャット=バルー」なんてのがそうですね.ジェーン・フォンダ演ずるキャット=バルーが父親を殺した敵を討つためにギャングになるのだけど,その中にリー・マービン演ずるアル中親父がキャットのために格好良く変身していくコメディがそうですね.ブログ主さんの言われる西部劇は恐らくこの手のものを指しているのではないでしょうか.


| そこで、ガンマン(水戸黄門)が暴力で超法規的解決を図るわけです。

 どうでしょうかねぇ.もともと江戸幕府の作った法を無視した,無法状態の土地に水戸黄門が超法規的処置をするのですから,逆に言えば江戸幕府の作った法(法度)自体に抜け穴が多すぎたとも言えるんじゃないでしょうか.


| 権力が有る上に立つものが法を守らないで如何しますか。?とんでもないことですよ。

 それには賛成しますけど,議論の方向性がちょっと強引過ぎやしませんか(笑)


| イラク戦争開戦時にジャーナリストが、ブッシュ政権首脳達を皮肉って、面白おかしく西部劇のガンマン達に描いたイラストを作ったら、怒るどころかブッシュやラムズフェルドはポスターを欲しがったそうです。

 もともと,西部劇の終わりと共にレーガン氏は俳優から政界へ進出した.なぜなら,ただ殺し合いだけの西部劇はベトナム戦争を鼓舞するだけの存在になっていたからである.逆に言えば,終末期の殺し合いだけの西部劇のポスターをネオコンたちが好んだのは当然だとも言えますね.あの素晴らしい時よもう一度~♪ てな所ですか(笑)
返信する
kaetzchenさん。 (ブログ主)
2008-05-21 09:34:24
コメント内容が記事の趣旨と、大きくずれて来ています。
このエントリー記事で私が言わんとしたことは、外国(一神教な的世界基準)では、
『謝罪とは、物事の善悪の最終決着』であるというものです。
『謝罪すれば、罪に問われる』
『謝罪した時点で、騒動は決着している』
然るに日本では、多くの人が『謝罪とは礼儀の一種』と考えている。
それで『罪と罰』の感覚なしに簡単に謝ってしまう。

この彼我の差は、単一の善悪の物差し(神とか法)を、全てのものに優先するか、或いはしないかで決ります。
だから日本人でも単一の物差しで判断する、警官や官僚は簡単には謝らない。

ドストエフスキーが面白いのは、単一の物差しの存在を知っているが、物差しが世界に幾つも有ることも知っている。だから面白い。
東方正教会は、カトリックやプロテスタントより厳格は誤解のようですよ。
これは西欧が東欧より先に民主化されたので、そのように見えるだけで教義的には正教会の方が穏やかです、
ユダヤ人差別や他の宗派への攻撃や、異端審問も勿論有りましたが、西欧よりもずっとましで、修道院での戒律もカトリックに比べれば緩やかです。
返信する
日本のアニメが世界で評価された原因は (ブログ主)
2008-05-21 09:49:47
欧米での同種のモノは、単純な善と悪、白と黒の二元論で出来ているが、日本モノは絶対的な悪とか、絶対的な善とかは余り出て来ない。
悪役でもいくらかの言い分や正義が有るという、此の辺が大人にも評価されたらしい。
ディズニーアニメの悪役は何処まで行っても悪役です。
善悪の物差しが一つだとこの様になるが、物差しが幾つも有ると考えると、そんなに簡単には善悪の判断は出来ないと考える。
この世界と日本の差は、世界観の差によると考えると案外分かりやすいかもしれない。
返信する
夜中に起きたので (kaetzchen)
2008-05-22 03:05:00
とりあえず誤解を解いておきます.ブログ主さんはクリスチャンでないので,各宗派の対立構造が見えていないような気がします.例えば「外国(一神教な的世界基準)」という発言がその典型例です.キリスト教世界で本当の一神教と言えるのはアメリカの福音教会つまりカルトのようなもので,実際に見てみると東へ行くほど地元の信仰などとの合体が大きい.プロテスタントでも英国国教会がそうですね.原住民のケルト人の信仰するカトリックとの融和を謀って結局失敗し内戦へと陥った.

つまり,哲学者や神学者は罪と罰のような二元論で考えていても,信徒である一般庶民はそんなに単純じゃない.単純な二元論に染まったとき,ナチスのような暴力が生まれてしまうものなのです.

東方正教会が厳格というのは,あくまで上記のような視点から見たものです.一度,ロシア正教の聖職者と話し合えば分かることです.私は文献に頼らず,経験主義から書いているので,その辺でブログ主さんとぶつかるのかも知れません.
返信する
Unknown (Runner)
2008-05-23 19:33:17
一般的な「謝罪」と違い、「土下座」は封建社会の文化でしょう。
それをいまだに日本人が愛好しているということは、日本人の頭の中が相変わらず封建社会のままだということも意味していると思います。

>やしきたかじんがテレビバラエティ番組で「味の素がない」と因縁をつけてスタッフに土下座を強要して暴行し軽傷を負わせた事件では、

そういえば、彼に限らず、暴行事件を起こし、それを自身も武勇伝のように自慢的に公言しているのに、なぜか逮捕もされない芸能人がいますね。
その一方で、煙草を吸った、酒を飲んだ、問題発言をした、との理由で長期謹慎を命じられる芸能人もいる。
いったい、この国は「法の下の平等」をどう考えているのでしょう。
返信する
Runnerさん (ブログ主)
2008-08-23 16:56:17
コメント有難う御座います。
『「土下座」は封建社会の文化』との認識は正しいでしょうが、『日本人の頭の中が相変わらず封建社会のまま』は間違いですね。
例えば貴方や誰か親しい友人達で、一人でも実際に人前で土下座した経験がありますか。?
多分無いはずです。
私も土下座などは、したことも誰かにさした事も有りませんし、現実に目撃した事例はテレビニュース等の選挙の中だけですね。
正しくは、
『日本の自民党などの保守政治家の頭の中が、相変わらず封建社会のままだということ』を意味しているのでしょう。

喫煙した未成年タレントや、ブログで問題発言した歌手を集団でバッシングする有様は、
日本人が『道徳』を口実にしてバッシング対象者の些細な悪事を、さも重大な非道徳的行為である様に断定して、その道徳本来の趣旨とは正反対の非道徳的な行為を平気で行う可笑しさ、嫌らしさを白日の下に晒している愚行。
これ等は、水騒動の実行者たちの非道徳性、非科学性とも共通しています。
返信する

コメントを投稿

文化・歴史」カテゴリの最新記事