人生晴れたり曇ったり

「辛酸を嘗めた私の闘病日記」2年半の闘病生活の峠を越え、その後の元気な日常を画像を加えながら不定期ですが書いています。

闘病日記 (4)

2021年10月14日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

ようこそ

四日目の朝を迎えた。寝付かずに朝を迎えたので、何時から夜で何時から朝かは分からないが、相変わらず激痛は続く。精神的にも一杯一杯の状態だ。50センチと体を動かすことが出来ない状態が続いている。

家族の顔も苦悩で満ちている。「あと一日の辛抱だ。」と言い聞かせ我慢を続ける。こんな体験は初めての事だ。ガンの闘病時より厳しいかも妻も「お父さん救急車を呼ぶか」と言い出す始末。「申し訳ないなぁ」

とにかく「頼れる病院に入院したい。「」この一念だ。1時間でも早く30分でも早く「あぁ痛い、痛い」四日目と言うのに痛みが治まる気配は無い。

その間にも妻が子供たちの都合を調整してくれ、長女は有給休暇を取得し、次男は夜勤明けで大丈夫と言うことで、とりあえず子供2人と妻の3人で明日の病院への移動は大丈夫と言う事になった。ありがたいが、妻と娘は体力的に考えても、70キロある私の体を抱えて車に乗せる事への不安が私にはあった。本当に大丈夫だろか

そんな事を考えながら、体の向きを変えたり、右足の位置を変えたりの連続は相変わらず。

ヘルニアと言う病を舐めていた「ここまでの激痛なのかと」不安というより、逃げ出したい心境である。

相変わらずだが、ようやく四日目も夜を迎えた。思うのは明日の診療の事ばかり。早く早く明日になってほしい。何としても明日は入院をして、この激痛を回避しなくては

幸いクリニックの看護士の女性から、長男の嫁に連絡があり、「何時でも直ぐに診察してくれるように、医院長にお願いした」との事。ありがたい事である。この看護士さんは、嫁の従妹で親しいらしい。年も近く家も近かった為に、今でも親しく付き合っているとの事である。本当に天使に思えるくらいに「ありがたい」

早く明日が来ますように。

では又ね

↓ランキング

カニ料理 兵庫城崎温泉おすすめの/Kinosaki Spa&Garden 湯楽

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

闘病日記 (3)

2021年10月12日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

ようこそ

自宅での寝たきりの闘病生活も3日で、19日の日曜日を迎えた。相変わらずに激痛は続いている。起き上がれないので、妻に一口サイズのおにぎりをこしらえてもらい、何とか食を繋いでいる状態だ。

同じ体制で寝ているが、30分も経たない時間で、また激痛が襲ってくるので、右手で右足のパジャマを掴んで、一番痛みの少ない体制を探して、また30分程は我慢が出来る状態を整える。これの繰り返しだ。気の遠くなる時間だ。

恨んでも仕方がないが、本当に運悪く連休の最中にこんな事になるとは、本当に皮肉なものだ。見るのは、テレビと時計と天井だけの生活である。

しかし、こうして我慢出来たのも、ガンの闘病生活の体験があるからだ。「あの時の恐怖に比べれば、このくらいの事は」と前向きにとらえ、我慢を続けた。続けたと言うより「それしか仕方がない」と言った方が正解だ。

何と1時間の長いこと。「あぁ早く21日の診察日が来ないかなぁ」こればかりを考えながら、また、時計と睨めっこ

本当に今後、起き上がる事が出来るのか不安が過る。妻も義母も口には出さないが、疲労もピークを迎えている様子であるので、愚痴は言えない。これ以上は心配は掛けられない。「我慢、我慢、我慢」だ。

結局、今日も改善するする事なく一日が過ぎようとしている。「あと一日の辛抱だ」と言い聞かせ、「21日の診察日は絶対に入院をお願いしようと決めていた。とにかく1時間でも早く入院したい」そんな心境だ。

そして、この状態の三日目の夜も更けて、眠れない夜が明けていく事になる。

本当に長い、長い激痛の続く三日間であった。あと一日の我慢だ。

皆様もお大事に。

では又ね

↓ランキング

カニ料理 兵庫城崎温泉おすすめの/Kinosaki Spa&Garden 湯楽

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

闘病日記 (2)

2021年10月11日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

ようこそ

結局、昨夜は激痛が続き、寝付くことは無く、夜明けを迎えた。妻も心配して、二階の寝室から深夜に何度となく、様子を見に来てくれたが、どうしようもなく一睡も出来なかったと言う。

あまりの激痛に時間を6時間空けなければならない痛み止めの座薬や飲み薬やとんぷくを、何度も服用してしまった。痛みに耐えられなかった為だ。考えてみると、昨日の朝食から何も食べていない。食欲もないし、起き上がる事さえ儘ならない

二か月ほど前より、異変は感じていたが、昨日からは一気に悪化したようだ。例えようのない恐怖の激痛だ。運悪く今日は土曜日で、明日からは連休になり病院は休みとなる。状況によっては、再び救急車の要請も考えたが、昨日の今日だけに我慢しかないのか同居している義母も心配そうに見守ってくれる。

幸か不幸か私は膀胱ガンで、膀胱を全摘しているために尿路変更の手術を受け、その為に普段からストーマをつけている関係で、おしっこに行く必要はなく、専用の袋に貯めて、一杯になれば外してトイレに流す為に、トイレに行く必要はなく、これは大いに助かった。日中は約3時間ほど貯められる袋をお腹に付けているのだが、夜は朝まで貯められる大きい袋を付けて寝るのだが、昨夜からは既に大きい袋を付けているので、10時間は大丈夫である。これだけは救われた。

苦痛の長い一日も日が暮れた。隣に住む長男家族や娘家族、次男家族が心配して次々に見舞いに来てくれた。ありがたく感謝しているが、それを上回る激痛は続く。

クリニックや豊岡病院では、椎間板ヘルニアとの診断だった。何度となく聞いたことはある病ではあるが、これほどまでの激痛が走るとは想像もしていなかった。右足の股関節から、ひざ下までの大腿部の裏側が異常に痛む。例えようは無いが、麻酔を打たずに抜歯する位の痛みである。うとうとしながらもすっかり日は落ちて、二日目が終わろうとしているが、今夜も眠れそうにない。次回の診察は、連休明けの21日火曜日となっているが、まだ三日間もこの状態が続くのかと思うと気が遠くなりそうだ。

何度もガンの闘病は経験したが、経験したことの無いこの痛みは、流石に辛く「参った参った」である。但し、ガンとは違い命の不安は無く、比べるのも可笑しな話だが、ただ痛いだけである。

眠れぬまま三日目の朝を迎えた。19日の日曜日だ。願うのは21日火曜日の診察の事ばかり。早く時間が過ぎてほしいと願った。自分の事以外は何も考えられない。次第に妻の表情にも苦悩が見て取れる。「申し訳ない」と悔やむが、どうしようもない。

振り返ってみれば、還暦の60歳からは、膀胱ガン、前立腺ガン、悪性胸膜中脾腫と3か所にガンを患い、長期間に渡り妻には何から何まで世話になった。あれから5年。再びこんな事が起きようとは想像もしなかった。本当に何が起きるか分からない。幸い私には、直ぐ近くに兄弟や子供3人の家族も居て、恵まれた環境で生活している。何かあっても直ぐに頼る事が出来る心強さは、何物にも代えがたい環境だ。感謝しなくては・・・・・

また、続きを投函します。皆様お大事に

では又ね

↓ランキング

カニ料理 兵庫城崎温泉おすすめの/Kinosaki Spa&Garden 湯楽

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

またまた闘病日記を書くことに (1)

2021年10月06日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

ようこそ

また、また、闘病日記を書く事になってしまった。2か月ほど前より腰痛に悩まされていたが、仕事の関係で少し無理をしながら、だましだまし仕事に取り組んでいた。

同業他社の買収の仕事で、色々と微妙な関係が続いていたが、ようやく売買契約も終了し、9月1日より合併しての本格的な業務に取り組んでいたが、どうも最近は何時もと違う体調不良に悩まされていた。

しかし、大切な時期でもあり休んでいる暇はない。何とか買収先の事業を引き継ぎ、新たな社員の雇用も増える中、体制を整えて通常営業を目指さなければ。しかし、体は悲鳴を上げていた。悲鳴というより限界に達していた。

そんな中で、ついにその時が来た。

9月17日の朝、何時ものように起き上がろうとすると、右足に激痛が走り起き上がることも出来ない状態に。普段は2階に寝ているのだが、妻を呼んで手助けをしてもらい、1階の居間にたどり着くも、何時もの痛みとは明らかに違うことを感じ取っていた。朝食も取らずに、案じる妻を振り切り、取り合えず車に乗り込み出勤する事に。普段なら20分ほどの道のりだが、何度も車を止めて、ようやく無事に会社に辿りついたが、時計を見ると1時間が経過していた。早速に妻に無事に到着した事を連絡した。心配をしていた様子が電話口より感じ取れる。

しかし、車から一人で降りる事も出来ないくらいに激痛が襲い掛かってくる。すでに脂汗でベチャベチャになっている。息子である社長に携帯から緊急事態を連絡し、会社の2階の私の部屋へ担ぎ込んでもらった。大勢の社員も心配そうに取り囲んでいる。朝は、最も忙しく慌ただしい時間帯である。気遣いに感謝しながら、持ち場に戻っていただいた。

以前から腰痛の兆候を感じていたので、市内のクリニックの電気治療には何度か通院していたが、改善する気配はなく、そこは医者を頼った方が良いと判断し、会社の近くの整形外科医を受診しようと決めた。

その間も自室のソファーに横になっていたが、収まる気配はなく激痛が続く。午前中の整形外科の外来受付時間は11時30分まで。既に10時30分を超えている。辛抱出来ずに息子や社員にお願いをして、11時15分に駆け込んだが、車から降りる事もままならない状態である。異常な光景を見つけて、看護士さんが3名飛び出して来て、車いすを準備してくれたが、それに移動する事も出来ない。結局、車いすは無理と判断して、歩行器に変えてもらい院内に抱えられるように運んでもらった。痛みもピークを迎えている。気絶しそうなくらいの激痛だ。結局は院内の待合室の床に倒れこみ、指示を待つことに。息子や店長の顔も強張っているのが感じ取れた。「申し訳ない」と呟いた。厄介な「おじさん」の姿である。待合室で順番待ちをしている患者さんの驚いている様子も感じていた。

長男の嫁の従妹が、このクリニックで看護士をしていた関係で、優先的に順番を回してもらい、レントゲン撮影を行い骨に異常が無いことは告げられたが、MRIの撮影が必要との事で、近くのクリニックに問い合わせをしてもらったのだが、予約が多く混雑しているとの事で、29日まで待機してほしいとの事で、一旦は会社へ戻ることとなった。29日と言えば、まだ10日以上先の話である。気の遠くなる待ち時間だ。

何度も大病を経験してきた私でも、流石にこの激痛は耐えられる限界を超えていた。限界と言うより恐怖と言った方が正しいのかも知れない。帰りも多くの看護士さんに応援をしてもらい車の場所に移動するも、乗る前に駐車場の地面に横たわってしまって動けない。来院される患者さんも驚きの表情を隠せない様子である。

何とか会社にたどり着き、屈強な男性社員3人と店長に担ぎ上げてもらい、2階の自室にようやくたどり着く事が出来たが、治療が行われたわけではなく、痛み止めの座薬と飲み薬を処方してもらったが、ほとんど効果は無く、苦痛な時間だけが過ぎていく。とにかく身動きすら出来ない状態である。

今日は、ユラクの来春の新入社員の内定者の会社見学の訪問依頼を受けていた日でもあり、毎年は私が「ほーゆー」の事業内容を説明していたのだが、当然対応できる状態ではなく、社長である息子と店長に変わってもらい盛況な中で無事に事なきを得たと聞いた。今後は、この仕事も世代交代をしてもらうことにした。

痛み止めの薬の効果に期待しつつ、時間稼ぎをしたが改善はせずに18時を回ってしまった。そんな時に携帯に着信があり、通話してみると整形外科クリニックからの電話で、「29日に予定していたMRIの検査に空きが出て、明日の9時ではどうですか。「」との事。」「あきらめていた検査が受けられる」と思い二つ返事でお願いをした。天にも昇る希望に満ちた気持ちになった。妻の迎えを待ち長男の手助けも受けたが、妻の力ではどうにもならずに、とうとうローカに倒れこみ身動きの出来ない状態となってしまった。万事休すである。

思い切って息子に救急車の依頼を要請してもらい、10分くらいは経過しただろうかけたたましい救急車のサイレンが会社の前の駐車場で止まった。激痛は相変わらずだが、「救われた「」と思った瞬間だ。ストレッチャーに載せられ、息子も含めて救急隊員3名の4人で階段を担ぎ下ろしてもらい救急車へ運んで頂いた。激痛は相変わらずだが、救われたと感じた。妻が救急車の助手席に同乗し、息子は会社の車で追従する。車内では色々な体調の質問を受けたが、今となっては記憶にない。体調を調べる機器も取り付けられ、公立豊岡病院へと緊急搬送される事となった。救急車での緊急搬送は、数年前にも経験していたので、今回が2回目となる。多くの皆さんにご迷惑をかけて「本当に申し訳ない」他人事と思っていた事態が、最近は加齢と共にお世話になる事が増え、大いに反省している。

緊急搬送先の公立豊岡病院は、会社から5分程度の近距離にあり、地域の拠点病院に指定されている総合病院であり、5年前の膀胱ガンや前立腺ガンなどの手術や、抗がん剤治療を受けた病院で、慣れ親しんだ病院でもある。

到着すると、看護士の皆さんが待ち構えていてくれ、ストレッチャーから病院のベットへ移動し、応急処置室へと運ばれた。血液検査や血圧測定を終えて、CT検査へと向かい痛み止めの点滴を1時間受けることになった。その間もぞくぞくと緊急搬送されてくる患者さんにも遭遇する。異様な雰囲気の処置室である。喚き散らす人。唸り声を出す人。暴言を吐く人。などそれぞれに壮絶だ。これが緊急処置室の実態だ。仕事とはいえ大変な業務である。もちろん平常を装ってはいるものの、私の激痛も収まらない中、時間だけは刻刻と過ぎていった。

痛み止めの点滴も終わり、追加で錠剤の痛み止めを服用した。気づくと3時間は経過したのだろうか担当医の先生から、整形外科のクリニックから、豊岡病院の整形外科に転院するように勧められたが、明日のMRI検査の件を伝えると、豊岡病院もMRIの検査は予約でいっぱいだそうで、クリニックでの検査を勧められた。「立てるようでしたら帰宅していただき、明日はクリニックでの検査を受けてください」との事。

痛み止めの効果が出てきたのか、何とか立つことが出来て診察室を後にした。外では妻と長男が待ち構えていてくれ、会社の配達用の箱バンで寝転んでの帰宅となった。既に11時は過ぎていただろうか、自宅の居間に布団を敷いてもらっていたので、そちらで寝る事となった。

一日が、30時間にも40時間にも感じられる恐怖の一日であった。

次回は、2日目以降の闘病生活を綴りたいと思います。

皆さんもお気をつけて、お大事に。

では又ね

↓ランキング

カニ料理 兵庫城崎温泉おすすめの/Kinosaki Spa&Garden 湯楽

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする