いっぱい写真を撮影したけど、かなりはぶいてます
写真を撮ったのはいいけど、ガイドブックを見ても
それがどこなのかがわからんのです
20年前に一度途中まで入ったことがあるのだけど
とーちゃんは、子供の頃に来ただけでして
二人して「なんかきれいに整備されちゃった気がするよね・・・」と
↑正面の入口(写真だけ。うちからだと裏から入ってしまったので)
↑右がたぶん・・・山門(私は能舞台だと思っておったさぁ)
※この散歩は11月の20日前後なので今の紅葉がどんなだかはしらんです
↑天然記念物って書いてあった「ビャクシンの老木」
↑え~と・・・これは、方丈庭園(ここからしか撮影できないでした)
↑庭園の池を流れるもみじ
↑これが・・・妙香池(虎頭岩がどれなのか・・・?)
↑妙香池には、カワセミがいました(これは、とーちゃんカメラで撮影)
※お寺の中のほとんどの場所は、三脚・一脚は使ってはいけないそうです
↑国宝の鐘の立て札の矢印につられ・・・
↑薄暗い感じの竹林を通り・・・
↑(なんかコワいんですけどぉ~ まだ?)先を行くとーちゃん
↑えーーー!@@か・・・階段じゃん
(の・・登るのかい?って、もう先に登ってるしぃ~)
↑・・・・・うそでしょ~@@ 上が見えないじゃん
(登ったら、降りなくちゃいけないんだぜぇ・・・お~い)
↑登りましたさぁ~ で、これが国宝の鐘
(私の足は、ゲラゲラと別人格のように笑い転げておりましたさぁ)
↑出口近くのイチョウの木・・・
あの階段は143段あるそーです(往復だと286ってこと・・・)
肝心な仏殿とか舎利殿とか、なんたら院とかの写真は
どれが、なんなのかガイドできないので
どーしても、見たい方は自分で行ってくだせー
2時間も歩いたので、確か翌日か翌々日は寝込んだような・・・
写真を撮ったのはいいけど、ガイドブックを見ても
それがどこなのかがわからんのです
20年前に一度途中まで入ったことがあるのだけど
とーちゃんは、子供の頃に来ただけでして
二人して「なんかきれいに整備されちゃった気がするよね・・・」と
↑正面の入口(写真だけ。うちからだと裏から入ってしまったので)
↑右がたぶん・・・山門(私は能舞台だと思っておったさぁ)
※この散歩は11月の20日前後なので今の紅葉がどんなだかはしらんです
↑天然記念物って書いてあった「ビャクシンの老木」
↑え~と・・・これは、方丈庭園(ここからしか撮影できないでした)
↑庭園の池を流れるもみじ
↑これが・・・妙香池(虎頭岩がどれなのか・・・?)
↑妙香池には、カワセミがいました(これは、とーちゃんカメラで撮影)
※お寺の中のほとんどの場所は、三脚・一脚は使ってはいけないそうです
↑国宝の鐘の立て札の矢印につられ・・・
↑薄暗い感じの竹林を通り・・・
↑(なんかコワいんですけどぉ~ まだ?)先を行くとーちゃん
↑えーーー!@@か・・・階段じゃん
(の・・登るのかい?って、もう先に登ってるしぃ~)
↑・・・・・うそでしょ~@@ 上が見えないじゃん
(登ったら、降りなくちゃいけないんだぜぇ・・・お~い)
↑登りましたさぁ~ で、これが国宝の鐘
(私の足は、ゲラゲラと別人格のように笑い転げておりましたさぁ)
↑出口近くのイチョウの木・・・
あの階段は143段あるそーです(往復だと286ってこと・・・)
肝心な仏殿とか舎利殿とか、なんたら院とかの写真は
どれが、なんなのかガイドできないので
どーしても、見たい方は自分で行ってくだせー
2時間も歩いたので、確か翌日か翌々日は寝込んだような・・・
なんだかとっても、安らぐ風景ですね~^^
円覚寺、名前を知ってるから、多分行ったことがあるのだと思うけれど
全く憶えていない・・・
お寺ってどこも、雰囲気が似ているからねえ~^^;
カワセミさんが、ふっくらかわいいです~
やだわ~気まぐれねこさんったら、虚弱なこと言って
わたしたちををだますつもね~?
本当は、とーちゃん追い越して、3段抜かしで跳んでいったくせにぃ~
円覚寺(えんがくじ)は神奈川県鎌倉市山ノ内にある寺院。山号を瑞鹿山(ずいろくさん)と称し、正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)と号する。臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位に列せられる。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元である。なお、寺名は「えんがくじ」と濁音で読むのが正式である。
鎌倉時代の弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。
JR北鎌倉駅の駅前に円覚寺の総門がある。境内には現在も禅僧が修行をしている道場があり、毎週土曜・日曜日には、一般の人も参加できる土日坐禅会が実施されている。かつて夏目漱石や島崎藤村もここに参禅したことが知られる。
これで眠られそうですか?
鎌倉幕府8代執権北条時宗は弘安元年(1278年)から文永の役の戦没者の菩提を弔うためと、己の精神的支柱となった禅道を広めたいと願い円覚寺創建を始めた。弘安5年に落慶したがその間、文永の役に続いて弘安の役も起き、弘安の役での戦没者の慰霊も円覚寺の役目となった。当時鎌倉にいた中国出身の高僧蘭渓道隆(建長寺初代住職)は弘安元年7月に没してしまったため、時宗は代わりとなる高僧を捜していた。そして弘安2年(1279年)に来日した中国僧・無学祖元(仏光国師、1226-1286)を開山に招いた。鎌倉にはすでに時宗の父・北条時頼が創建した建長寺が存在していたが、官寺的性格の強い同寺に対し、円覚寺は北条氏の私寺という性格がより強かったと言われる。また、中国に帰国しようとしていた無学祖元を引き止めようとしたという事情もあった。
山号の「瑞鹿山」は、円覚寺開堂の儀式の際、白鹿の群れが現われ、説法を聴聞したという故事によるものとされ(『元亨釈書』等による)、今も境内にはその鹿の群れが飛び出してきた穴と称する「白鹿洞」がある。また寺号の「円覚」は、時宗と蘭渓道隆とが寺を建てる場所を探している際、現在の円覚寺がある場所に至り地面を掘った所、地中から石櫃(いしびつ)に入った円覚経という経典が発掘されたことによるというが(『本朝高僧伝』等による)、これは建長寺開山と因縁つけようとした意図のある伝説であると円覚寺はみている。
当寺では元寇で戦死した日本の武士と元軍(モンゴル・高麗等)の戦士が、分け隔てなく供養されている。
円覚寺は弘安10年(1287年)以降たびたび火災に遭っている。中でも応安7年(1374年)の大火、大永6年(1526年)の里見義豊の兵火、永禄6年(1563年)の大火、元禄16年(1703年)の震災などの被害は大きく、1923年の関東大震災でも被害を受けている。
寝てるでしょっっ
一応、引っ越す前に調べたけどぉ
人には説明できないんですぅ~
ご丁寧に、書いたの?
それとも、コピペ?
読みましたよ~
「白鹿洞」ってあったけど
「・・・?」って感じでした
だって洞窟じゃないし(ふさいだのかな?)
なんか、ぞぞぞ~って感じでした
おうちの裏から、有名なお寺へ行けるんですね。
階段をとっとこ登って行くとうちゃんが、
妙に私好み。
頭も黒くテフサフサだし~(アデランスじゃないよね)
気まぐれネコさんと同い年なんですよね。
若くみえるし~
お寺はどうでもいいので、父ちゃんによろしくにゃん。
ファン1号の、にゃごやんより。
(内心、かなり喜んでるよーです)
とーちゃんの髪はホンモノです
薄くはないけどぉ
遠くから黒いですが・・・
かーちゃんが染めてあげとります
とーちゃんの白髪染めにくたびれて
自分のをずーとやってないので
夜、鏡にうつる自分にぶったまげてます
私だけ、ババぁに進化しとりますぅ