津和地島
愛媛県松山市中島町(旧・温泉郡中島町)津和地(つわじ)島は、西の山口県周防大島や北の広島県倉橋島に近い、県境の島である。島の東側は冬季の西風を遮ることができる天然の小さな湾になっていて、人家が密集している。和船の沖乗りの時代には飲料水の確保が出来、瀬戸内の東西に流れる潮の満ち引きを上手く利用した潮待ち・風待ちの湊であった。有名な備後・鞆や安芸・御手洗ほど繁華ではないが、伊予松山藩の御茶屋もあったというほど栄えていた古い島湊である。
左から、津和地港と案内板(2007・2013)・かってのメインストリートを行くだんじり(1977)・ 乗り子(2007)・だんじり舁き(2013)・最後の2枚は東組(津和地島で最初のだんじり)の彫物道具箱で、それによると明治7年(1874)に導入されている。(後年の文化財由来書には明治6年とある)
津和地島のだんじり
津和地島には4台の蒲団型太鼓台〝だんじり〟がある。現在は生業主体が漁業となっていて、少子高齢化は〝超々〟がつくほど進行している。最も直近に見学した2013.10(H25)には、太鼓叩きの乗り子として、男児に混じり女児も何人かいた。聞けば、松山市在住の島出身の親が、だんじり保有地区から頼まれて参加したという。高齢化も目立つようになっていた。島では担ぎ手も不足し、4台のだんじりのうち、人口減少等から1台は出せなくなっていた。最初に訪れた1977.10(S52)時点では、担ぎ手のほとんどが漁業関係や島出身の青壮年で、高齢者は少なかった。やがて参加年齢は50歳にまで引き上げられ(H19・2007時点)、次いで80歳までへと延ばされ、〝今は、足腰の立つ男手の全てが参加することになった〟と笑い飛ばして答えてくれた。
しかし、そのように語ってくれた皆さんの顔は、男女を問わず嬉々として輝いており、甚だ若やいで見えた。私たち太鼓台文化圏・近未来の〝超々・少子高齢化社会〟を先取りしている格好の津和地島の現状からは、〝お年寄りの多い地域社会と、伝え遺していくべき伝統文化の好ましいカタチの有り様〟が垣間見えてくるように思えた。今後の各地の〝太鼓台文化圏&地域社会のあるべき姿〟について、津和地島から私たちは学ぶべきことが多々あるようにも思った。
蒲団部の構造等
写真左から、蒲団枠の外観(1枚)・四隅の固定部分(2枚)・蒲団部の内部構造(3枚)・格天井(2枚)・彫刻部分と斜めの雲板(1枚)・四本柱下部(1枚)・組立作業時一休憩(1枚)、蒲団部の蒲団〆に相当する飾りはタスキ状となっている。
蒲団部は枠蒲団型であり、1畳ごとの蒲団は、四角い枠の芯部分に柔らかい打った藁を巻き付けていた。藁の外側にはカタチを整えるため、萱やスポンジ・漁網なども使用されていた。スポンジや漁網などは、蒲団を眺めた場合の体裁を考えての使用と考えられるが、近頃の応用であろうと思われる。それぞれの蒲団枠の四隅には蒲団枠の型崩れを防ぐ三角形部分があり、その穴に綱を通して強固な五畳一体の蒲団部に拵える。
蒲団部を乗り子座部の部分から眺めると、彩色された格天井があり、蒲団天の布とによって蒲団部は密封されている。格天井の直ぐ上に、四本柱の揺らぎやだんじり全体を補強するための✖型の太い斜交いがある。斜交いの先端は、斜め角度に切られていて、かなり珍しい〝斜め雲板〟の内側に合うようになっている。雲板については、平面的な雲板が太鼓台装飾の本流であると考えているが、津和地島のだんじりでは逆台形の斜め雲板になっている。
斜め雲板を太鼓台へ採用している地方としては、愛媛県・西条市立こどもの国にて展示・復元の〝新町みこし(太鼓台型のだんじり)〟に同様のものが備わっている。(下記写真を参考)
左から、津和地島の斜め雲板&彫刻と雲板の角飾り(3枚、津和地島)、新町みこしの外観(斜め雲板の様子、2枚)・西条だんじりの四本柱上部の構造(1枚)。(後者は、いずれも西条市こどもの国にて展示中)
このように、新町みこし蒲団部の斜め雲板と、津和地島だんじりの斜め雲板とはよく似ている。新町みこしの場合は、年代的に先出していた数多くの西条だんじりの影響があったものと思う。(西条だんじりの四本柱上部に、新町みこしと同様の構造が見える) ただ現在、私たちが何気なく〝太鼓台の雲板〟と称している蒲団部全体を載せた平らな部分(この部分には瑞祥の彫刻などを施していることが多い)は、過去の時代においては、津和地島や西条のような〝斜めの雲板〟ではなかったか、との疑念は拭えない。
東組だんじりの刺繍幕
最後に、1873明治6年頃の津和地島初の〝東組だんじり〟に用いられた唐獅子・牡丹図柄の刺繍幕を紹介する。
(終)