太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

蒲団部構造(10)四国地方の明治期の基準太鼓台・箱浦「屋台」

2021年02月18日 | 研究

川県三豊市詫間町の箱浦屋台(香川県立ミュージアムへ寄贈・保管中)の、主として四国側太鼓台文化圏における存在意義等に関しては、2019.8〝明治期の基準太鼓台・箱浦屋台に想う〟において述べているのでそちらをご参照していただきたいと思う。また、格好の情報として『塩飽海域の太鼓台・緊急調査報告書』(2012.3観音寺太鼓台研究グループ刊)の22㌻~28㌻(以下)が参考となるはずである。

 

明治8年に誕生した箱浦屋台の蒲団部は〝枠蒲団型〟である。そのカタチは、文化圏各地に数多く広まっている形態、即ち蒲団枠の内側は板、外側の膨らみ部分は竹籠編みとなっている。外側の竹籠編み部分に、上から古紙(和紙)を貼っているのも、ほぼ各地で共通している。古い時代の人々には、竹は間違いなく万能で大切なモノであった。竹や笹は神事やハレの場には必須の存在であったと同時に、軽くて強度があり釣り竿のようにしなり易く、更には自在に加工しやすいことから、さまざまな日常生活の用に役立てることができた。神聖・軽量かつ身近に増殖し易い植物であった故に、各地太鼓台の美しさの象徴的な蒲団部に採用されてきたと考えられる。竹籠編みの上に貼る古紙は、ささくれ立った竹を覆い羅紗布を巻き易くするため、箱浦屋台では古紙を貼っただけとなっているが、各地の蒲団枠では更に柿渋を塗り、防腐・防虫に配慮している。閂(カンヌキ)は各辺の中央に1か所となっている。

写真は左から、箱浦地区にあった太鼓蔵での保管状況、蒲団枠の構造と組み立てられた外観(いずれも香川県立ミュージアムにて) 。最後の写真は、柿渋が塗布された蒲団枠の例(観音寺市村黒町にて)。ただ、今日では蒲団枠の丸みを保つ作りとして、竹籠に発砲スチールを代用する地方がほとんどとなっている。

比較参照

冒頭引用の《荘内半島「箱浦屋台」について》の26㌻(上掲、左から4番目の画像)の⑧に、「屋台の乗り子は、獅子舞の太鼓打ちと掛け持ちであった」とあるように、箱浦では屋台の乗り子が同時に獅子舞の太鼓打ちを務めていた。これは、広島県三原市幸崎町能地の「ふとんだんじり」の乗り子と同様な役割となっている。即ち、⒜能地の獅子太鼓は、現在では獅子が欠けた奉納形態となっているが、ふとんだんじりの乗り子が、だんじりより降りて、やはり獅子遣いの太鼓を叩いている。⒝また、現在の蒲団を積んだカタチ以前にあった蒲団を積まない〝屋台のごとき〟太鼓台の伝播元として、《蒲団部構造(6-②)能地の「ふとんだんじり」資料集》の「佐江崎村誌から振り返る能地ふとんだんじりの歴史」表では、伊予多度津辺が振り当てられている。⒞詫間町は多度津町の隣町であり、箱浦は荘内半島の先端近くに位置するとは言え、河岡武春氏作成「能地・二窓寄留移住地図」によれば、能地・二窓からの移住村にも近い。⒟能地ふとんだんじりの特徴的な掛声「世の中見事に」の文言は、坂出から宇多津・丸亀・詫間・仁尾に至る西讃岐の海岸線に広まって使われている。これらのことから、能地のふとんだんじり以前の〝屋台のごとき〟太鼓台が、実は掛声と共に、多度津辺からの伝播であったことが偲ばれているのである。

(終)

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