太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

蒲団部構造(11)香川県西讃・愛媛県東予地方の太鼓台、河内(こうち)上組の「ちょうさ」

2021年02月26日 | 研究

河内(こうち)上組太鼓台は、愛媛県四国中央市(旧・伊予三島市)の上町・久保(久保・上町、別名〝東雲〟太鼓台)にて、明治26年(1892)に造られたものである。伊予三島から河内に伝えられた長持ち状〝保管箱〟の左右側面に「上町」と「久保」がそれぞれ書かれているので、伊予三島では隣り合う両地区が共同で保有していたものと思われる。同じ26年に〝金大八ツ房并に同小房入箱(とんぼの金糸・八ツ房と、蒲団四隅に飾る金糸・小房)〟が作られ、その後の明治35年(1902)に金縄が東雲太鼓台で作られている。

明治44年(1911)の〝四ツ房箱(四本柱四隅に飾る大房)〟には「上組太鼓」と書かれているので、三島から購入後、山本町河内上組にてグレードアップするため四つ房を新調したものであろう。後年地元の計らいで河内上組太鼓台は香川県立ミュージアムへ寄贈され、これまでに何回か展示もされ、愛媛県東予から香川県西讃域の明治中期の太鼓台を知る上で大いに活躍している。

このように太鼓台道具箱の現存状況等から、太鼓台が伊予三島から河内上組へ伝えられたのは、明治40年(1907)前後のことと思われる。明治26年の新調間もない伊予三島の太鼓台が河内地区に伝えられたのは、同地区で権勢を誇っていた「大庄屋・大喜多家の尽力によるところが大きかった」と、地区の皆様から聞いた。広大な屋敷を持つ大喜多家の在る河内では、〝ここから金毘羅さんへ参詣する五里六里の間、大喜多家以外の土地を踏むことなく行けた〟と今も語られている。

大喜多家によって伊予三島から購入されてきた太鼓台は、この屋敷の中にあった蔵で年中保管され、祭りの時だけ〝大喜多家から若連中へ貸し出され、組み立ては塀の外の空き地で行っていた〟とご教示いただいた。120年以上経過している割に太鼓台の痛みが少ないのは、三島からの購入が新調から十数年しか経ってないことと、祭りが終われば地区民の手の届かない屋敷の中の蔵に大切に仕舞われていたためだったと思う。現在、河内上組太鼓台は、地区民の総意に基づき高松の香川県立ミュージアムへ寄贈され、〝明治期の基準太鼓台〟箱浦屋台の後に続く、〝明治中・後期の東予・西讃の姿を伝える太鼓台〟として、太鼓台文化圏の遺産として永く伝え遺されている。(最後の写真は、H7(2005)年9月、ミュージアムでの「讃岐の祭り-太鼓台とだんじり展」の組立時のもの。後方は若干小振りな箱浦屋台)

以下の画像の中にある水引幕の金糸の色合いが、掛蒲団や蒲団〆と比べると経年劣化が少ないので、より後年に作られたものと想像する。

 

積まれた7畳蒲団は、各辺連結の枠分解型で、閂は一つの面に対し2か所である。このカタチは、現在の西讃・東予地方では広く普通に分布している。〝蒲団バリ〟と通称される外側の丸い竹籠編み部分は、竹の網代編みとなっている。

[関連] 三好市池田町井ノ久保の「ちょうさ」

四国札所・雲辺寺への阿波からの登り口近くに、井ノ久保地区はある。現在は出されなくなったが、明治20年(1887)製の蒲団枠を飾る太鼓台が伝えられている。

明治20年製の井ノ久保太鼓台では、中央に閂が1か所つく。太鼓台そのものも、やや細身で少し小さい。水引幕や掛蒲団は遺されていなかった。西讃・東予の太鼓台に積まれている蒲団部の閂だけに特化してみれば、明治8年(1875)の箱浦屋台が1か所、明治20年の井ノ久保太鼓台でも1か所、明治26年(1892)の伊予三島・東雲太鼓台(後の河内上組太鼓台)では2か所となっている。少ない事例ではあるが、明治20年代の半ばを境にして閂の数が2カ所に増えている。当然ながら、各地では太鼓台の大型化への需要が高まり、そこに積まれた蒲団部も比例して大きくなり、組み上げられた蒲団部の補強を確固たるものとするため、閂の増加につながったものと考えている。

[小論まとめ]

この地方の太鼓台は元々から現在の規模でなかったことは想像に難くない。発展の過程で徐々に現状に近づき、豪華装飾や太鼓台の大型化・重量化が成されたものである。太鼓台文化圏各地の太鼓台の規模を眺めてみると西讃・東予地方についても同様で、明治8年(1875)製の箱浦屋台では、現在の近隣各地に比べ一回り以上小さい。このことは、新居浜から広島県大崎下島・大長(おおちょう、現呉市豊町大長)へ伝えられた太鼓台(地元呼称は櫓・やぐら)、更に大長から能地(三原市幸崎町能地)へ伝えられた太鼓台(地元呼称・ふとんだんじり)の新旧の比較図等(新居浜市立図書館『新居浜太鼓台』H2.3刊)で明らかになっている。この大長と能地の太鼓台が幕末から明治初期製と比定されている。(能地の方が大長よりも古い)しかしながらそれ以前になると、物理的にも古いものは殆ど遺されていなく、この地方の太鼓台発展の様子は雲を掴むような話となり、甚だ困難を極めている。

この地方における能地・大長に続く時代の太鼓台は箱浦屋台であり、更に箱浦に続くのは井ノ久保であり、この河内上組の太鼓台である。太鼓台はその時代時代において人々の熱い想いを受け留め、その結果、今日の規模に近づいたものである。これらの太鼓台から想定されることは、明治20年半ばに太鼓台の大型化が推進され、それまでの若干小振りな太鼓台が徐々に駆逐されていき、やがて明治後半に至り、東予から西讃・中讃及び西阿(徳島県西部)の太鼓台は、ほぼ全てが画一的な規模の大型太鼓台に変化・発展していったものと想像する。

(終)

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