太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

「フトン(型)太鼓台」の「フトン」表記は、「蒲団」なのか、それとも「布団」なのか。

2019年04月12日 | 研究

「蒲団」と表記するべきなのか、「布団」なのか-。

単なる漢字表記や旧字云々だけにとどまる問題ではない。私は強い意識を持って、「布団」ではなく、「蒲団」を用いている。

ここでは、小川光賜氏と森岡貴志氏お二人の探究を紹介し、「蒲団」と「布団」との相違点の確認と、私が「蒲団太鼓」と主張する理由について説明したい。

○小川光賜氏‥『寝所と寝具の文化史』(S59刊、P149~)

(中略)今日ではフトンのことを蒲団とも書きまた布団とも書くが、布団は比較的後世の当て字で、本来は蒲団と書くが、それは蒲(がま)を材料とした円形の敷物であったからである。(中略)つまりここでいう蒲団とは坐禅のとき、禅僧がお尻の下にあてがう小型の坐蒲団であった。それはふつう、径1尺2寸、周囲3尺6寸の円形で、中にパンヤなどを入れて弾力をもたせたものであったらしい。(中略)現在でも、フトンのことをなぜ蒲団とかくのかという理由がわからないまま、布団、蒲団の字が混同されることが多いし、じっさい問題としても、禅坐の用具であった蒲団と、江戸時代このかた寝具として一般に使われてきた蒲団とは、同じ字でよばれるにはあまりにも違いが大きすぎる。(後略)

○森岡貴志氏‥「蒲団」の研究-漢語の「蒲団」と寝具の「蒲団」

※ 漢語交じりの長文ですが、蒲団を考える上で大変参考になる論文だと思います。(http://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/06/morioka.html)

森岡氏論文と小川氏著書とを引用・参考にして、「蒲団」という言葉を箇条書き的に要約・深読みしてみた。

①「蒲団」の漢字は中国伝来の漢字で、平安時代から文献に見えていた。その時代には「ワラフタ」と訓じられていた。

②蒲団は、中国でも日本でも、元々は禅僧が座禅用の「座具」として用いた円形の敷物であり、蒲(がま)や麦藁(むぎわら)を編んで作られていた。

③日本で蒲団の漢字を「フトン」と音読するようになったのは、恐らく鎌倉時代中期頃とみられる。

④日本において、蒲団の意味が座具から寝具を指す言葉へと変化するのは、安土桃山時代(1500年代の終り頃)とされている。(「夜着(よぎ)」&「蒲団」で上・下の寝具一式となる。夜着は上掛けの夜具で襟付き・袖付きのもの、蒲団は敷蒲団を指す)

⑤「蒲団」の漢字は、日本では座具から寝具を指す言葉として、日本独自で変化して用いられるようになったが、中国では一貫して座具としての漢字であり、寝具には蒲団の字が用いられていない。

⑥木綿の最初の種綿栽培は失敗したが、2回目の種綿が中国からもたらされたのは室町時代(1392~1573)末期で、木綿生産は安土桃山から江戸時代初期に始まり、江戸時代を通じて各地に定着していった。

⑦寝具の蒲団が登場してくるためには、大量の綿と、それを包み込む木綿布地の生産が必須であった。

⑧江戸時代における蒲団は敷蒲団のことを指し、掛蒲団はまだ登場していなかった。

⑨「布団」という語は、江戸時代後期(1800年頃)から文献に出ていて、最初から「フトン」と音読され、寝具として認識されていた。

(参考;綿と木綿及び木綿布との関係]  綿は綿花から種を取り除いた塊を言い、木綿及び木綿布は、綿から取り出した木綿糸を材料にして製品化したものを言う)

<1>「蒲団」という漢字や座具は中国伝来のもので、さまざまなカタチをした全ての太鼓台が誕生する以前から存在していた。

<2>中国から伝来した時代より江戸時代初期までは、蒲団とは座具であり、蒲や麦藁でできた円形のものであった。(「布団」という漢字や製品はまだなかったか、少なくとも世間一般的な存在ではなかった)

<3>「蒲団」の漢字が、円い「座具の蒲団」の意味から、方形の「寝具の蒲団」の意味へと変化したのは江戸時代初期以降であり、その当時の「蒲団」とは、敷蒲団を指す語であった。

<4>寝具の蒲団‥最初は敷蒲団、後に上方では大蒲団(掛蒲団)にも‥の中身に多量の綿を詰めるためには、木綿が大量に栽培されなければならなかった。(しかし綿は高価であったため、一般への普及は、外綿が大量に輸入されるようになった明治中期以降を待たざるを得なかった-明治29年に「綿花輸入関税の撤廃」法が成立)

<5>この時代における「寝具の蒲団」の地方別相違については、西日本では主に「大蒲団&蒲団」(現在の掛蒲団の前身&敷蒲団)が使われていて、東日本では「大蒲団」は使われず、西日本より遅くまで「夜着(よぎ)&蒲団」の時代が続く。

<6>「布団」という寝具を指す漢字は比較的に新しく、木綿布の生産と相まって一般化していった。

 以上述べたように、「蒲団」とは座具から寝具へと変遷したものであり、当初の「寝具の蒲団」とは敷蒲団のことを指し、西日本では、東日本より一早く「大蒲団&蒲団」(現在の掛蒲団&敷蒲団の様式)に変遷している。西日本と東日本の蒲団のカタチにおける相違点は、西日本が上下どちらの蒲団も方形であるのに対し、東日本では今しばらく夜着を用いていた。

 実は、この大蒲団と夜着のカタチの違いが、東西日本の太鼓台文化の広がり(東日本は皆無、西日本に多量分布)に、決定的な濃淡をつけたと私は考えている。客観的に眺めても、太鼓台文化圏の分布の主流は、「蒲団型」の太鼓台が担っていると言っても過言ではない。綿入りの高価な蒲団を売って利益で潤うのは誰か。その蒲団の宣伝効果を、知らぬ間に担うこととなっていたのが、私たちの蒲団型太鼓台ではなかったか。これまでに太鼓台の受け入れた側からの探究はかなり進みつつあるのは確かだが、その反対側からの専門家的視線―即ち、太鼓台の売り手側(大坂・大店の呉服商)からの文献等による探究―も推進していかなければならない。まさに、各地の太鼓台が華々しく登場してくる時代こそが、畿内及び各地の綿生産の拡大・高価寝具としての蒲団の大量普及と深く関わっていたことが理解されてくる。

章の終わりに、次の表を示し、寝具の「蒲団」と太鼓に採用されている「蒲団」について考察を深めたい。

※本件記事は、『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化』(2015.3刊)に発表の、「太鼓台文化の共通理解を深める~蒲団構造に関する一考察から」(72~107P)をベースにして作成した。

※2025.1.13追加投稿

私が〝フトンを積み重ねた太鼓台〟を、布団型太鼓台ではなく、蒲団型太鼓台と記す理由

①蒲団型太鼓台の登場記録は、四国地方では18世紀末期になってからであるが、その先進地・供給元であった畿内地方では、それよりも早い。

②寝具革命・衣服革命などと称され、社会生活に大変革をもたらした綿花栽培の成功は、それまでの日本人の生活を一変させた。そこから生まれた様々な新製品は、それだけインパクトのある〝革命的・新製品〟と位置付けられた。上表で示した「蒲団」がその最たるものである。綿をふんだんに使った蒲団は、高額ではあったが間違いなく庶民の高根の花であった。

③神仏に用いられた蒲団(これは現在の敷蒲団に相当する。掛けて用いる大蒲団・掛蒲団ではない)は、最初は神聖な神仏が用いる坐具(座る時の重ねられた敷物)として位置づけられていた。各地の蒲団型太鼓台登場と同時期か、それ以前と考えられる祭具の蒲団(椅子に重ねた蒲団を積む〝曲録=きょくろく〟や馬の背に高く蒲団を積み重ねた〝高荷馬や飾り馬〟、お船などに積まれた〝蒲団〟及び次④項の刺車紋錦御被の〝箱輿〟など)の存在が、坐具としての蒲団であることを物語っている。決して現在と同様の寝具としての布団(掛布団+敷布団)ではなかった。

④伊勢神宮・外宮の刺車紋錦御被(秘紋;さしぐるまもん・にしきのみふすま)に刺繍された〝箱輿〟を、神様が休まれる高価な寝具の〝布団を運ぶ宝車〟であると、勝手に坐具と寝具との異なる関係性を、さも両者とも同じ寝具であると関連付けをしたのは、一体誰であったのだろうか。この点が蒲団型太鼓台の誕生や、その後の流行の謎を解く最大の解明点としならなければならない。

⑤私は、伊勢神宮・外宮の刺車紋錦御被に刺繍された〝箱輿〟の存在が、蒲団型太鼓台と蒲団との関係に決定的な影響を与えたと考えている。この刺車紋錦御被の箱輿は、一見すれば蒲団を積んだ寝具のようであるが、そうではなく神様に供える神饌を入れた重箱のような運搬用の箱であるとされていて、上が幅広く下が狭く、区切られた七段重ねとなっている。それは、ちょうど現在の太鼓台に積まれた蒲団部のような形状になっている。(当初の蒲団型太鼓台は、3畳や5畳を積み重ねていたと推測する)

⑥高額な蒲団型太鼓台を各地へ広めていった大坂商人(特に呉服商人)の、利潤獲得への商魂に深く感心させられる。伊勢・外宮の箱輿に積まれた神饌入りの箱を、各地の所の氏神様が休まれる寝具の布団と解釈すれば、各地の氏神様が、伊勢神宮と深くつながり、否が応でも〝神宮の箔やご利益をいただく〟ことになる。伊勢参宮の大流行や、代参に見られる各地無数の伊勢講の存在が、「箱を、蒲団(布団)に読み替えること」を後押ししたのだとも言えるのではなかろうか。これにより、本来は箱であるべき秘紋が、人々にとって都合の良い、神様が休まれる布団(最初は坐具としての蒲団であったかも知れない)へと、意識されるように取って代わった。

⑦また、③項で引用したブログでは、人々に身近な糸店の立体看板や糸巻の画像を示したが、彼ら商人は、伊勢外宮の秘紋を扱う同じ同業者仲間の末端業者として、〝秘紋でありながら、その存在を熟知していた〟ものとしなければならない。

⑧箱から蒲団(布団)に転換された身近な看板等からは、蒲団型太鼓台の蒲団部の次なる発展の芽吹きが読み取れる。すなわち〝本物蒲団型から鉢巻型を経て枠蒲団型〟への発想・発展の気付きである。

以上から、「フトンは、本来的に寝具用の布団ではなく、坐具の蒲団である」との考察に至る。ならば、上表の夜着や大蒲団との関連、すなわち〝寝具としての上布団・掛布団の登場は、蒲団型太鼓台の登場よりも遅い〟ということになる。先ず最初に坐具としての蒲団があって、その後に寝具の布団の流行に伴うカタチで〝布団型太鼓台〟が登場することとなった。それ故、坐具の〝蒲団型太鼓台でなければならない。布団表記は時代的に早過ぎるし、坐具の蒲団表記こそが的を得ているとの結論に達する。

 (終)


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