特徴ある呼び名を持つ各地の各種太鼓台等に対し、標準語的扱いで「太鼓台」と正規に記録されだしたのは、一体いつ頃のことなのだろうか。太鼓台文化圏の人々にとって、各地で異なる名称にて同じ文化を論じ合うことは、甚だ支障となるのは論を待たないと思う。「太鼓台」を標準語として認知しておかないと、今後的な太鼓台研究の足並みの揃ったスタートが切れないのではないかと思う。「太鼓台=標準語」と看做すことを、今直ちにやっておかないと、私たちは前に進めない。証明できる史料等を見つけ出すのは至難のことだと思うが、客観的に理解できる古記録や遺産などが無いものかと長く思案していた。そのような矢先、姫路市・粕谷宗関氏著『故郷に神の華あり』(2005刊 442、439㌻)に出会った。
実は多様な太鼓台呼称の実相こそが太鼓台文化の本質であり、文化謎解きの手がかりとなる先人たちからのメッセージでもあると考えているが、その反面、各地の太鼓台が独立独歩や我田引水を決め込む独善的下地となっていることも間違いのない事実である。これまで大なり小なり各地が独善的我田引水を決め込んできたことによって、私たちの太鼓台文化は大いに害されているのは間違いない。
私たちは、未だに太鼓台文化理解の入口に立ち入った段階でしかないのだが、太鼓台の分布状況・その体験人口や影響力等に思いを巡らせても、現状の太鼓台文化の規模に対し、文化的評価や太鼓台が人々に影響するパワー等については、余りにも軽微な扱いしか受けていないのではなかろうか。伝統文化の客観的史実の解明に際し、独善・我田引水ではなく“太鼓台文化圏の仲間同士の協同作業”によって、遠隔の互いの文化を比較し論及しあうことが間違いなく重要であり、そうした一歩一歩の歩みこそが太鼓台文化圏を広く知らしめる方策になっていくはずである。広大な太鼓台文化圏の解明を、ごく少人数の人々に託していたのでは、恐らくこれまで同様、その解明は遅々として進展していかないのではなかろうか。明治維新以降、太鼓台文化は中央学会からも無視されてきたと思うし、東京一辺倒の現在においては、なお西日本の地方文化でしかないかのごとく軽視されているのだと感じずにはいられない。この文化圏の大勢の人々による協同作業で、これまでのモヤモヤを打破し、太鼓台文化圏としてまとまりのある文化解明を期待したい。
さて「太鼓台」表記の初見であるが、屋台(神輿屋根型太鼓台)新調時の大工図面が、上記・粕谷宗関氏の著作によって見い出された。氏によると、この図面は姫路市・魚吹(うすき)神社の宮田村と津市場村の2台の屋台が大坂(大阪)で造られた時のものと伝えられている。その折の大工さんが書いた図面ではないかとのことである。共に「太皷臺」と表記されている。掲載された神輿屋根型の屋台部材の写真では、「天保五年 午十二月 宮田村太皷臺」、「天保十亥八月作之 津市場村太皷臺」と書かれている。共に神輿屋根型の屋台(太鼓台)であるので、「太皷臺」と表記されていることに意義深いものを感じる。(画像は上記著作の442・439㌻よりコピー・転載させていただいた)
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