<太鼓台の分布・形態・呼称>
祭礼奉納物の太鼓台は、西日本にしか見られない文化である。(※①) 比較的豪華となった太鼓台は、江戸時代後期に、大坂(大阪)を基点とした海運によって西日本の津々浦々へ広まって行ったことが偲ばれている。大・小及び豪華・簡素が入り混じる太鼓台の形態は、私見として凡そ芸予諸島の東と西で発展の様相を異にしている。大坂に近い東部では、発達した形態のものが数多く分布しているが、大坂がより遠くなる西側の地方では、簡素で小型の太鼓台が多くなっている。また、太鼓台を体験(見聞きしその存在を知る、或いは運行に関係する)している人々は意外と多く、現在推定で約2,300万人を数える。西日本の各地に広がる同様な太鼓台の体験エリアを、私は愛着をこめて「太鼓台文化圏」と称している。
太鼓台は、各地へ伝えられたものが互いに関連し合い、或いは当時の大坂商人の販売戦略の影響で高級化され、段々と発展して今日にある。ただ、私たちが更に知りたい太鼓台誕生の経緯や発展の詳細な過程など、太鼓台の歴史に関する論及等は、これまでほとんど知ることはなかった。しかし、各地には誕生時を彷彿とさせる簡素な太鼓台も多く伝えられていることから、それらを比較検討することで、原初の太鼓台がどのような形態であったのか、それがどう発展していったのか等、この文化の歴史の一端を追体験することは可能である。そのような作業を通じて、各地の太鼓台が単独の存在ではなく密接に関連していることを、改めて理解することとなる。現在、蒲団型や屋根型のものだけが太鼓台と思われがちだが、私たちは、それ以前の簡素な形態、即ち、櫓型・四本柱型・平天井型も、広い範囲に流布されていることを理解する必要がある。(※②)
各地に広まる太鼓台の呼称についても形態同様に千差万別で、掛声・形態・担ぎ方の特徴等から、「ちょうさ・やっさ・せんだいろく・ちょうさい・さしましょ・こっこでしょ・どんでん・よいやせ・よいや・さっせぃ」(掛声等)、「蒲団太鼓・だんじり・四ツ太鼓・櫓(やぐら)・太鼓山・屋台(やたい)・あばれ・揉(も)み山」(形態・担ぎ方など)、地方毎に異なっている。
各地の祭礼記録に太鼓台が登場するのは、早くて18世紀前半、私の住む香川県から愛媛県東予地方では、やや遅く18世紀後半である。そこでは「神輿太鼓」と書かれていることが多く、担ぐ形態の祭礼奉納物として神輿に供奉していたことがほぼ理解されている。文化圏全域で、初めて「太鼓台」と表記されたのは、現時点の最も古い記録で天保5年(1834)のことであり、これは姫路市の屋台(神輿屋根型太鼓台)の大工図面に書かれている。(※③) 近隣地方での太鼓台関連の古記録では、「神輿太鼓」寛政元年(1789)伊予三島、「ちょうさ太鼓」同・大野原、「神輿太鼓」文化3年(1806)川之江、「太鼓」文化5年(1808)伊吹島、「ちょうさ太鼓」文化6年(1809)観音寺、「輿太鼓」文化10年(1813)琴平、「太鼓」文政5年(1822)新居浜などが古い。(これらのほかにも、太鼓台の呼称は特定できないが、装飾品保管箱の存在等で、太鼓台の存在が確認できている地方はある。ただ、姫路市のように「太鼓台」と表記されたものは、今のところ確認されていない)
<香川県下太鼓台の概要>
勇壮に担がれている大人太鼓台は、県下で凡そ350台が確認されている。(※④) 地域別では西讃(観音寺・三豊)が最も多く155台、次いで中讃(坂出・丸亀・善通寺・宇多津・多度津・琴平・まんのう)の101台、東讃(高松・さぬき・東かがわ)の42台、小豆島と直島地区で52台となる。また、中・西讃及び小豆島では、大型で豪華な形態が多く、東讃や島嶼部では、比較的簡素な太鼓台が分布している。勿論、子供太鼓台も多数ある。香川県は、人口や面積の上では規模は小さいが、こと太鼓台に関しては、大変盛んな土地柄となっている。
中・西讃から愛媛県の東予にかけての太鼓台は、豪華な金糸の刺繍飾りが特徴となっている。これは、この地方から太鼓台専門の刺繍職人(縫箔師・縫師)が多数出たことや、伝統文化特有の、他地区に負けまいと華美を競ったこと等により発展したものである。この地方は、太鼓台文化圏の中でも兵庫県と並び、現在では「豪華・大型」の最右翼となっている。
明治以降における太鼓台装飾刺繍の制作や供給元は、琴平の旧金丸座近くに刺繍工房・松里庵を構えていた髙木家で、元々は、金毘羅芝居や各地地芝居の豪華な刺繍入り衣裳を、主に制作していたとみられている。明治中期になって、髙木家では、芝居衣裳制作の将来性を憂慮し、西讃・東予で需要が増してきた太鼓台刺繍へと転進を図っている。このため工房を、東予に近く船便の良かった観音寺へ移し、四代目の現在に至っている。しかしながら、髙木家を含む明治初期頃までのこの地方の刺繍工房の詳細については、全く未解明のままであり、早期の解明が待たれている。
髙木定七縫師(嘉永5年1852生まれ、松里庵・初代と目される)が琴平から観音寺へ転居した明治中期頃を境に、西讃・東予の太鼓台刺繍は急速に発展している。また、やや遅れて登場した山下茂太郎縫師(文久元年1861年生まれの山下縫師・初代、旧姓・川人、阿波池田出身、主に西阿波から東予及び西讃で活躍。現在、三代目が伊予三島で活躍中である)も、この地方を代表する縫師であった。この二人の縫師と、男女を問わず彼らに続く多くの無名の職人たちの尽力がなければ、恐らくこの地方の太鼓台は、今日ほどの隆盛はなかったはずである。
太鼓台を持つ各地元では、地域の「よすが・宝物・象徴」として伝統を受け継いでいる。観音寺と小豆島では、1台の太鼓台を維持していくのに、驚くほどわずかな人数でしかない。0歳の子供からお年寄りまで含めても、観音寺で520人、小豆島で550人ほどである。各地とも太鼓台維持には、人と金、どちらも重い負担が当り前なのである。
<香川県下の太鼓台文化遺産>
太鼓台保有地区では、遺産に値する年代物が、殆んど伝わらないのが普通である。装飾は甚だ痛み易いこと、本体は激しい使い方のため何度も補修を重ねて大きく変容していること、また、中古としての売買が多々あること等が、大方の理由である。
現在までに確認されている県下の主な遺産としては、観音寺市伊吹島に、太鼓台の蒲団枠をバラバラに分解して収納する「保管箱」(東部・文化2年1805)と、太鼓台新調(拵え直しを含む)以降を記録した「太鼓寄録帳」(西部・文化5年1808)及び「太鼓帳」(南部・天保4年1833)が伝わる。伊吹島にはこの他にも年代物の収納箱や古記録等が複数ある。三豊市山本町にも、西側太鼓台の新調(拵え直しを含む)以降の記録「割帳」(弘化元年1844)がある。また、観音寺市大野原町には、嘉永2年(1849)起しの下木屋太鼓台記録文書が若連中によって保管されている。更に、当時の太鼓台規模が実感できる絵画史料として、小豆島町・亀山八幡宮祭礼の様子を、地元絵師が描いた「奉納祭礼絵馬」(文化9年1812作画、安政5年1858再画)がある。
(伊吹島・東部太鼓台の蒲団枠保管箱)
(小豆島池田・亀山八幡宮の奉納絵馬)
太鼓台にも甚だ貴重な遺産が伝えられている。三豊市詫間町の箱浦屋台(県立ミュージアム蔵)は、太鼓台本体・装飾の刺繍幕・保管箱など一切で、制作年代が判明している。太鼓台本体と初代蒲団〆は明治8年(1875)製、以下、掛蒲団が明治14年(1881)、水引幕が明治29年(1896)、二代目蒲団〆が明治41年(1908)である。箱浦屋台は、中・西讃及び東予の太鼓台が豪華へと発展した過程が偲べる貴重な存在であり、正にこの地方の「明治期の基準太鼓台」と言うべき遺産なのである。
(箱浦屋台の全容と初代の蒲団〆)
<文化圏の旗頭(トップランナー)として>
人口減少と老齢化社会の到来は、地域の存続や伝統文化の継承などに、大変な危機感をもたらしている。今それぞれの地方では、危機解消に向けたさまざまな対策が為されようとしている。私は、豪華な太鼓台が多い私たちの地方(四国の瀬戸内地方)の場合には、身近な太鼓台そのものを、危機打開の「最強ツール」として選定していくべきではないかと考えている。私たちの「よすが・宝物・象徴」的存在である太鼓台を、お祭りの数日間だけに活用しているのは、余りにもったいないと思う。太鼓台は地域の誰からも愛され、老いも若きもさまざまな人々を結びつけ、これからの時代にも、地域をまとめていく役割を、多方面に亘り、まだまだ十分に果せると考えているからである。
行政サイドのものの考え方には、太鼓台は伝統文化ではあるが、宗教行事の一環(即ち神道、政教分離の原則に反する)であるとして、「ノー・タッチ」を決め込む自治体も多い。果たして、大多数市民の精神的よりどころとなっている伝統文化・太鼓台を除外した単純思考で、これからの超少子・高齢化の人口縮小・減衰社会を、乗り切れるのだろうか。若い世代の活力を地域に取り込むことができるのだろうか。文化の旗頭を自認している地方であるからこそ、太鼓台文化を「地域活性化の核」として、再認識していく必要があるのではないだろうか。お祭りの数日間のみ太鼓台やその文化を活用するだけでは、余りにももったいないと思う。
上のユネスコ無形文化遺産登録・略地図と太鼓台文化圏・略地図を重ね合わせて見ていただきたい。太鼓台文化の認知度がどのようなものであるかが、一目瞭然であることがご理解いただけると思う。太鼓台文化圏は、そっくりそのまま伝統文化の「空白地」に甘んじている。文化的には若干後発の伝統文化ではあるのは間違いの無いところではあるが、太鼓台もユネスコ登録の「大型祭礼奉納物」と同様な存在だと考えている。悔しいとか失望とかを言うつもりはない。格差のあり過ぎに、「これが太鼓台文化の現状なのだ」と、改めて文化圏各地へ突きつけられた思いがするばかりである。同時にこれまで、その格差そのものに気付こうとせず、「なぜ、格差があるのか」をも考えてこなかった太鼓台文化圏に生きている自分たちの力の無さを痛感させられ、改めて自問自答している。
<出でよ! 「太鼓台文化圏の旗頭」>
太鼓台の形態の違いや規模の違いに見るように、伝統文化・太鼓台は、現在に至ってもなお歴史不透明な「解明途上の文化」に甘んじているし、文化圏各地でしばしば見られる「自・太鼓台が一番」と主張する我田引水や排他性の解消もままならない。間違いなく近年までは、「太鼓台文化としての統一性」がほとんど感じられることはなかった。この文化圏の旗頭と少なからず自負している私たちの地方は、文化の未知や謎を解明していくこと、文化圏各地への協力や共生関係を後押ししていくこと等、発展の恩恵に見合った、相当に重要な役割があるのではないかと考えている。新たな文化の解明事実が各地で共有され、各地の協力・共生関係が少しずつ前進していけば、ささやかかも知れないが、私たち地方の貢献する姿勢が、各地間の信頼関係構築に役立ち、ひいては同一文化圏としての進むべき方向も、より明確になっていくものと思われる。私たちの地方は、旗頭ゆえの文化的発信や各地への貢献を至極当り前と受けとめ、文化圏内の互いの信頼関係を築いていくことに、より心を砕く、「太鼓台文化のふるさと」でありたい。各地との「貢献と信頼」のキャッチボールによって、この文化圏全域の活性化に貢献し、太鼓台文化を真の伝統文化へと高めていく、誇りある町になりたいと想う。
[脚注]
※① 北海道・旧洞爺湖村…北海道開拓団出身者の地縁で旧財田町からの寄贈。愛知県豊橋市…太鼓台を奉納する神社が、大三島・大山祇神社の摂社という関係からの伝播。この二ケ所のみに存在。
※② 太鼓台の発達は、櫓型(大太鼓を中央に垂直に積み、太鼓叩きの乗子座部だけが備わる)・四本柱型(櫓型の四隅に四本柱が備わり、竹笹・御幣・梵天などを装飾)・平天井型(四本柱型の上に平らな天井を載せた形態)へと続き、豪華さを増し、屋根型や蒲団型の太鼓台へと発展していく。
※③ 『故郷に神の華あり』(2005刊・粕谷宗関氏著439・442頁)を参照させていただいた。
※④ 「山車・だんじり悉皆調査」の「香川県」編(http://www5a.biglobe.ne.jp/~iwanee/)を参照させていただき、若干部分を補正した。
[参考] 太鼓台文化探求に関する図書等は、観音寺市立中央図書館2Fにありますのでご参照ください。
<私自身の発表に関係するもの>『太鼓台』(アルバム1978私家本) 『新居浜太鼓台』(1990)『ちょうさ‐観音寺市の太鼓台』(1991)『小豆島の秋まつり 太鼓台』(1998)『太鼓台の原風景』(1999私家本)『太鼓台刺繍の一考察』(2005私家本)『伊吹島太鼓台資料集』(2009)『塩飽海域の太鼓台・緊急調査報告書』(2012)『太鼓台文化の歴史』(2013)『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化』(2015)『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化・Ⅱ』(2016)『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化・Ⅲ』(2017)
<以下は姫路市・粕谷宗関氏著作‥播州地方の屋台探究の大家。画像も多く、参考となる点が多い>『イキマの美 播州祭屋台学宝鑑』(2001)『故郷に神の華あり』(2005) 『祭屋台記』(2008)『祭屋台史余話』(2011)『祭彫刻志』(2012)『祭屋台伝』(2014) 『写真集 江戸期の祭屋台工芸文化』(2015) 『写真集 和唐吽(ワカラン)文化 祭屋台総観』(2016)『三つ巴紋の謎を求めて』(2017) 『播州屋台蔵』(2018)
<画像が多く、1830年代の西讃・東予地方の太鼓台装飾の概要がよく分かる>『西条祭礼絵巻』(2012西条市総合文化会館)
★この小論は、香川県立ミュージアムで開催(2019.8.3~9.7)された『香川・瀬戸内の風流 祭礼百態』の販売図録に掲載された小文「太鼓台文化圏と香川の太鼓台」を、加筆訂正したものです。
(終)
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