広島県呉市に属している大崎下島(旧・豊町)は、「櫓・ヤグラ」と呼称する太鼓台が伝承されている。現在、島の中心地区の大長(オオチョウ)、かって北前船で賑わった御手洗(ミタライ)、島の南部に位置する沖友(オキトモ)地区に、それぞれ形態やルーツの異なる太鼓台が継承されている。(かっては島の他の地区=久比や立花でも櫓は出ていたと聞いた)
大長の櫓は、明治初期まで愛媛県新居浜市の祭りで奉納されていた太鼓台である。(明治初期の太鼓台とせず、中期頃とする立場の研究者もある)また大長には2台の櫓が新居浜から伝播したが、太鼓台同士・地区間の喧嘩が絶えず、已む無くその内の1台を、三原市幸崎町能地地区へ売却している。能地に関しては<蒲団部構造(6)家船の親村・能地の「ふとんだんじり」>として、このシリーズの別稿にて詳しく紹介している。
大長の櫓の規模から、明治初期の新居浜太鼓台の規模が想像できる。『新居浜太鼓台』(H2.3.30 新居浜市立図書館刊)の研究編の前にある現在の江口太鼓台との比較イラストに、「能地櫓(旧江口太鼓台)」とあるのは、「大長櫓(旧江口太鼓台)」の誤りである。4枚目は、櫓に付随していた道具箱の墨書き。「大坂心斎橋筋東入岩井(田か?)町・阿ぶ羅屋弥助・明治三年(1870)午喜久月・恵具知若中」とある。最後の写真は、櫓内部の蒲団部を見上げている。
御手洗の櫓は、住吉神社勧請(大坂の豪商・鴻池家が中心となって文政13年1830に寄進)と同時期に大坂から伝えられたものと考えられる。帆船時代の御手洗は、安芸・広島藩の肝入りで瀬戸内でも著名な潮待ち・風待ちの湊として繁華を極めていた。海岸沿いには西国雄藩御用達の船宿が建ち、北隣りの岡村島(愛媛県)との間の狭い御手洗水道には数多くの北前船が錨を下ろしていた。近隣各地をはじめ諸国からも交易船が訪れるため、御茶屋の開設など様々な人寄せ策が講じられた。櫓の導入もその一環であったと想像する。
岡村島(手前の島)から望む御手洗地区。御手洗の櫓と、蒲団内部の作り。夜になると蒲団部を取り払い写真のような暴れ太鼓となる。(実際には昼間用と夜間用の2台の櫓が使われている)
沖友の太鼓台・櫓について
沖友の櫓は、中型ながら重厚な本物蒲団を3畳積む。遺されている保管箱の側面には「文政三年(1820)」製であることが書かれている。そのほか蓋には「紋・本金梅八・猩々緋御水引(函) 三井納」とある。この保管箱は、深みのある立方体状の箱である。水引幕が三井(三井・越後屋)で作られていることから、上方辺の保管箱様式、即ち、水引幕は巻き軸に巻いて縦長の深い箱に入れて保管されていたものと思う。水引幕を巻き軸に巻いている写真は、姫路市在住のS・K氏の提供のものであって、この状態で縦長の箱に収めるようだ。
左写真から、沖友の櫓と台と乗り子座部。本物蒲団を積んでいるため、据える時などの衝撃で大きく蒲団部が揺れる。蒲団天部には梅八紋が金糸で縫われていて、水引幕は文政3年製。水引幕の梅八紋刺繍の裏紙を左右反転してみると<〇の中に井筒に三(三が不鮮明)>の「三井・越後屋」の印が確認できる。本物蒲団を3畳重ねて固定するにはなかなか骨が折れるため、沖友では小さなミニチュアの天部を伝えてきた。(ミニチュア天部の上と下、実際の天部の上<蒲団側>と下<花丸天井>、乗り子側は豪華な作りとなっている)水引幕保管箱の墨書き。「維時 文政三(1820)庚辰(かのえたつ)九月旦」「奉寄進 若胡屋 加免(かめ)」、若胡屋は御手洗にある御茶屋である。蓋には「紋 本金 梅八 猩々緋御水引(函)」とある。最後の2枚の写真は、このような巻き軸に水引幕を巻いた状態で保管されていたと思われる。(姫路市在住のS・K氏提供)
沖友・櫓の蒲団型太鼓台史における位置づけ
重厚な本物蒲団型の太鼓台である。本物蒲団を積んでいる太鼓台の数は文化圏内でも少ない。実見したのは、ここ沖友の櫓と、南予・深浦の「四つ太鼓」だけである。紀伊半島・熊野市の「よいや」の最上部にも本物の蒲団を積んでいたが、下の2畳は鉢巻蒲団型であった。よいやの場合には、本物蒲団が蒲団押さえの役目も兼ねているような構造であった。深浦の場合(下写真の内、4枚参照)には、深浦近隣の南予一帯の四つ太鼓は枠蒲団型であったので、深浦だけがなぜ本物蒲団型であるのかが今一つ理解できないでいる。ただ、播州地方の神社祭礼絵馬等の中には、本物蒲団を積んでいるのではないかと想像できる絵画史料もあることから、簡素な本物蒲団型太鼓台が、過去には存在していたものと考えられる。
南予・深浦の「四つ太鼓」は、障子と呼称される天井に、直に蒲団を重ねていく。その近似形として、嘉永元年(1848)姫路市・林田八幡神社祭禮絵馬(5枚目)と、播磨町・阿閇(あへ)神社の祭礼絵巻(6枚目、年代不詳)が絵画史料として存在している。いずれもが、十字に縛った蒲団締めや蒲団部の描き方が、深浦の蒲団部によく似ている。
沖友・櫓では、ボリュームある本物蒲団を積み重ねている。また、深浦でも林田八幡神社の絵馬や阿閇神社の絵巻でも3畳の蒲団となっている。本物蒲団を太鼓台に載せるには、3畳までが限界ではなかろうか。沖友のようにボリュームある蒲団部の固定に、サンプル活用などをしていくら苦心しようとも、ふわふわ感や安定感の欠点は解決できない。従って、太鼓台がより大型により美的に発展するには、本物蒲団から脱却していく必要があったと思われる。このシリーズ総集編の「太鼓台は、どのように発展してきたか?」の図では、「蒲団型」において最初に登場したのが「本物蒲団型」ではあったが、やがて本物蒲団型を経て「鉢巻蒲団型」に移行し、更に、太鼓台は大型化や発展の度合いを推進するため「枠型」に移行していったものと思われる。沖友・櫓は、最も重厚な本物蒲団型であり、同時にそれは発展しきった本物蒲団型に位置づけされるべきカタチである。その意味では、この櫓は、蒲団型太鼓台の変遷や発展過程を追体験できる数少ない貴重な太鼓台である。
(終)
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