下津井沖・松島
松島は瀬戸内の小島である。瀬戸大橋が香川県側から岡山県の下津井に架ろうとする直前、右手眼下に見える。下津井節で知られたノスタルジックな下津井湊とは2㎞足らずで、定期航路はない。私たちは釣り客用の渡し船をチャーターして島に渡った。人家は見えるものの人の姿は見えない。来島した2015年当時には、わずか2人しか常住していなかった。倉敷市役所のボランティアの皆さんに同行するかたちで千載楽に"会い"に行った。太鼓台・千載楽(せんだいろく)は、島の高台に鎮座する純友神社(藤原純友を祀っている)の拝殿に片付けられていた。千載楽で使われていたと思われる提灯が昭和39年・1964の新聞紙にくるまれたままであったので、恐らくそれ以後は出されていないのではないかと想像した。神社は世話する人もいないらしく、神社への登り道も拝殿周辺も荒れ果てていた。ボランティアの皆さんと一緒になって一汗かいたあと、長年のほこりを被った千載楽を神社前の小広場に移動させていただいた。
革(カワ)が無くなっていた太鼓の胴には、「文政八年(1825)酉十月吉日・細工人・大坂渡辺村北之町・太皷屋長兵衛(花押)」とあった。2020年の今からは、180年ほど前である。拝殿の片隅にほこりを被ったままの、まだ千載楽が神社へ奉納されていた頃の写真があつた。しかし、もう千載楽を担ぎ引き回すこともないだろう。極端な限界集落となってしまった松島では、過去のミュニティは失われ、1台の太鼓台の歴史をも消滅に追い込んでいた。私たちは、遺されていた千載楽のほこりを払い、在りし日の雄姿を追体験させていただくため、簡易的に組み立てさせていただいた。組み立ててみると、唐木(太鼓台本体の木組み)部分は意外と新しかったため、文政8年当時の物ではなく、後年の制作ではないかと思った。
千載楽の蒲団部
左から、簡易的に組み立てた唐木の外観。3畳目(最上部)の蒲団部の内と外側、竹籠編みで天は封されていた。蒲団部の角の様子と竹籠編みの状況。1畳目と2畳目は、内側は薄い板を枠組し外周は半円の竹籠編み、封はされていなかった。(蒲団部の段数や枚数を表現する際に、3畳蒲団とか5畳蒲団などと単位に<畳・ジョウ>を使用しているが、これは<畳>が蒲団を数える単位であるため。各地の「七条蒲団・九重蒲団」の条や重もここから来ていると考えている)
近隣・千載楽の蒲団部について
岡山県南部や備讃瀬戸海域(香川県と岡山県との間の海域。西の来島海峡と共に大小数多くの島が点在する)も太鼓台の数が多い。中でも倉敷市玉島地区では各神社で盛大な奉納が繰り広げられている。『玉島千載楽誌』(2008玉島千載楽誌編集委員会編・刊)によれば、この地方での現時点における最古の記録は、丸山千載楽の太鼓胴内の墨書「享和2年1802」である由。この地方に太鼓台文化が根付いたのは、高梁川河口・西岸の玉島湊の繁盛が大きく影響していると言われている。玉島に伝えられた太鼓台・千載楽が、内陸部へは高梁川を経て、近隣地区や島々へは陸路や海運を仲立ちとして、岡山県南各地へ伝えられることが多かったものと思われる。
もう一つ、この海域の香川県寄りの塩飽(諸島)海域のほとんどの島々にも太鼓台は伝承されている。塩飽海域の太鼓台は、岡山県側に近い島では「千載楽=せんだいろく」、香川県側に近い島では「さしましょ」と呼ばれている。また、古くは「さしましょ」、明治以降に「せんだいろく」と呼ばれるようになったとも聞く。『塩飽海域の太鼓台・緊急調査報告書』(2012観音寺太鼓台研究グループ編集・刊)にて紹介したが、真鍋島(岡山県)・佐柳島・高見島・高見島・粟島・志々島・広島・本島(以上香川県)の島々には、大きく豪華に発達する以前の小型・中型の太鼓台が目白押しとなっている。(更に、江戸期の天領・倉敷代官の支配であった小豆島や直島にも、太鼓台の数は多い)
下津井沖・松島の千載楽は、岡山県南の陸地部に比べかなり小型ながら、使われていた太鼓の胴内記録「1825文政八年」に窺えるように、誕生はかなり早いようだ。ただ、千載楽誕生の最初から松島で奉納されていたのか、それとも他地方からの伝播なのかは不明である。千載楽の外観が玉島近隣の千載楽に酷似しているため、他地方からの受け入れの可能性が高いと考えるべきだろう。以下に岡山県側の千載楽の蒲団部、次に塩飽諸島各島々の蒲団部をランダムに紹介したい。
岡山県側・千載楽の蒲団部
左から、倉敷市玉島柏島(2枚、1枚目は保存会提供)、玉島乙島(2枚)、笠岡市入江(1枚)、笠岡市真鍋島(3枚、手書き図は真鍋島の長老E・S氏作画)、倉敷市連島地区の千載楽(2畳蒲団に特徴があり、中央部は四角にくり抜かれていて蝶々の飾りを挿している)
塩飽諸島・太鼓台の蒲団部
前から、多度津町佐柳島「センダイロク」(3枚、前の2枚は新居浜市K・S氏撮影提供。3枚目は昭和24年ごろ撮影されたもの=多度津町歴史資料館)、次は丸亀市の本島・笠島地区「センダイロク」枚(3枚、明治13年製の幕を持参して取り替えてみた。中)、同市広島・市井の太鼓台(3枚、大人用は長く出されていないのか神社の倉庫に片付けられていた。拝殿には小さな子供太鼓台が置かれていた)、次の2枚は昭和52年当時の多度津町・高見島「だんじり」(大人用は出されなくなっていた。写真は子供用を若者が担いでいた)、最後の3枚は三豊市・志々島の「だんじり」。志々島では蒲団の無い屋根型のものであった。
下津井沖・高島千載楽の蒲団部構造は、かなり網目の荒い不揃いな竹籠編みであった。それが、笠岡市入江では全体が網目の揃った蒲団籠になっていた。また、岡山県南の各地では籠部分が木枠となっているもの(真鍋島)、更には連島のように木枠の周りが藁や綿で巻いているもの(玉島乙島の横転している千載楽も含む)、備讃瀬戸の島々や四国側の太鼓台のように<木枠&閂>形状であるもの等、さまざまなカタチが確認できる。また一方で志々島のように、屋根型の太鼓台も文化圏の各地には点在している。これらはすべて、カタチは様々に変わっていても、間違いなく太鼓台同士である。
高島の千載楽が文政8年(1825)というかなり早い時代の太鼓台であることで、この時代には既に今日私たちが普段に見ることのできる竹籠編みの蒲団部の前身的存在として、誕生・流布していたことが想像可能である。高島千載楽の不揃いな竹籠編みを知ることによって、改めて、竹という植物の太鼓台文化に及ぼした影響の大きさを、私たちは蒲団部を通して学び直さなければならないと思う。
(終)
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