以前の投稿、「積み重ねた蒲団が〝上ほど大きくなる〟カタチを、解き明かしたい。‥蒲団部斜め化の考察」(2021.7.31)の際に、謎解きを先送りにしていた〝蒲団型太鼓台の蒲団部誕生〟について、今回と次回に分けて、蒲団型の誕生や草創期のカタチなどについてできるだけ平易に考察を加え、今日の蒲団型太鼓台がどのような経緯から誕生したか、また如何にして文化圏を代表するカタチと成り得たか等を、皆さんと一緒になって考えてみたい。少し理屈っぽくなるが、お付き合いいただきたいと思う。
1.太鼓台文化圏における〝蒲団型太鼓台の位置づけ〟と「前期・蒲団型太鼓台」(仮称)について。
文化圏の様々なカタチの太鼓台を改めて眺めてみると、上表のように、「蒲団型」と「屋根型」が〝太鼓台発展の上位発展形〟として広まっていることに気づく。(赤地に白抜き文字は豪華・大型に発展した太鼓台)そして、各地に分布する〝各種各様のカタチの太鼓台〟のうち、蒲団型や屋根型以外(それ以前)の太鼓台では、概ね全てで小型・簡素が主流となっていることも事実である。また、現在は発展している蒲団型や屋根型も、かってはそれほど豪華でも大型でもなかったことが、近年の探究からは判明している。各地の古い時代の絵画史料に依らなくとも、例えば、屋根型のうち、最も大きく豪華に発展している播州・姫路地方の明治初期頃の「神輿屋根型太鼓台」(屋台)は、兵庫県揖保郡佐用町三日月地区に伝播し、現役の屋台として現存しているが、下記前段の画像比較でも理解いただけるように、屋根部分もかなりなだらかで、現在の姫路地方の屋台(前2枚)と比べ、全体の大きさも一回り以上小さい。同様な関係が、巨大・豪華な蒲団型太鼓台が密集する香川県中・西部から愛媛県東部地方などでも、売却等の伝播によって、播州地方と同様な状況がうかがえる。(下段2枚の例示画像は、新居浜太鼓台の新旧比較及び明治初期の太鼓台規模の隔地間比較)
蒲団型太鼓台に限定して分布状況やそのカタチを眺めてみると、簡素・小型から豪華・大型まで、西日本の各地に広く分布していることが分かっている。この内、発展の最上位にある香川県中・西部から愛媛県東部では、ほぼ同一形態・同一規模の蒲団型太鼓台(ちょうさ)に昇華された現状となっている。ただ、現在は大型化しているこれらの地方の太鼓台も、上の2枚の比較画像のように、明治前期頃までは、間違いなく高さ3m前後の比較的小型の蒲団型太鼓台であったことが既に分かっている。
当時の太鼓台が小型であった理由については、道路や橋などに狭い・強度が弱いなどの構造的な問題があったことや、太鼓台舁きが地域力を発揮するバロメータであったこと、移動手段の全てが人の肩によって担がれていたこと等にもあったと考えている。このように道路事情が悪かったことや、狭い同一の地域内で、各地区とも威勢よく競い合うことに力を注いでいたことから、当時の太鼓台は現在と比べると、まだ大型化にはつながっていなかったのではなかろうか。
また、大型・豪華太鼓台が密集するこれらの地方では、遅くとも明治前期頃から始まっていたと考えられる太鼓台文化の隆盛を通じ、各地区では、装飾面には微妙な相違点があるものの、太鼓台そのものは〝ほぼ同一形態(単一形態の蒲団型太鼓台)に昇華された〟と私は見ている。四国のこれらの地方の蒲団型太鼓台(ちょうさ)が、豪華・巨大に発展し得たのは、登場年代にそれほど差がないこと、蒲団型一辺倒の同一形態の太鼓台ばかりが身近な祭礼に参加し、そのような状況下で他地区と競い合い、〝少しでも他に勝る優れたカタチのものを持ちたい〟という願望や対抗心が大きかったからだったと思う。もしこの地方に、冒頭の発展想定表に掲げた蒲団型以外のさまざまに分派した太鼓台が流布していたとすれば、他地区とのバランス感覚を発揮し、周りを余り意識せず、それほど他地区の太鼓台と比べることや競争することもなく済んだのかも知れない。そして、大きさや装飾の規模も、比較的旧態に近い小型・簡素を留めていたのではないかとも推測する。
蒲団型太鼓台が、全ての太鼓台の中で、客観的に見て〝どのような位置にあるのか〟という点に関しては、四国の上記地方のほぼ全ての蒲団型では、高さ4m~5m超、重量2.5t~3t超の巨大化したものとなっている。このことから、現状では間違いなく〝蒲団型が、太鼓台文化圏を代表する最も発達したカタチである〟と言うことでほぼ間違いはない。それでは、なぜ蒲団型がさまざまなカタチの中から、文化圏を代表する大型・豪華な規模に発達し得たのだろうか。実は、この問いに関する明確な論及には、残念ながら今日まで見聞きしたことがない。少なくとも私自身は、ささやかながら太鼓台文化の解明に長年携わり、様々な情報をキャッチしてきたつもりだが、その網にかかることは全くなかった。
2.草創期の蒲団型太鼓台(仮称:「前期・蒲団型」)と、そのカタチについて
広大な2,300万人の太鼓台文化圏を、同じ目線や公平的立場で接するするためにも、頭抜けて発展した蒲団型太鼓台の簡素なカタチの過去を知ることは、豪華太鼓台を有する私たちが我田引水とならないためにも、大変に重要な視点であると考えている。その為に、まず取り組まなければならないのは、私たちの蒲団型太鼓台の最も早い時代に登場したと想定されるカタチを、客観的に知ることである。蒲団型がこの文化圏の主流となって広まっていくに際しては、数ある種類の太鼓台の中から蒲団型を選択した受入れ側・地元の〝自主的な意思決定〟は当然あったと思うが、それ以上に、私は〝蒲団型を売らんかなと画策する、何か大きな時代の潮流があったのではないか〟と考えている。その辺りの受け入れ側に起因する要因以外の〝隠された(?)理由〟を、もう少し詳しく探っていくこととする。
豪華に発展した蒲団を積み重ねた太鼓台の供給元とされているのは、かっての大坂であった。これはほぼ間違いのない事実である。5畳蒲団を積む伊吹島の太鼓台は、遅くとも文化2年(1805の拵え直し。私見ではこれより一世代≒約50年前頃には導入されていたと思われる)には、当時としてはかなり大型化した蒲団型太鼓台を、大坂直結で購入している。大坂からの太鼓台伝搬に関しては、売り手側上位(大坂・呉服商)であり、地方の買い手側(太鼓台の購入側)は、大都会・大坂で完成した派手で豪華且つ勇壮な文化を、受動的に受け入れる立場にあったのではないか、と私は考えている。
(1)1畳蒲団型の太鼓台
伊吹島の場合は5畳蒲団の蒲団型であったが、各地の絵画史料などでは3畳重ねのものが数多く確認されている。勿論、現在の各地祭礼にも3畳蒲団の太鼓台はかなり多い。従って、〝蒲団型太鼓台の一番初めは、3畳の蒲団型なのか〟と言うと、そうではない。現在の蒲団型太鼓台の場合、一例として、1畳の蒲団を積む明石市・和坂(かにがさか)太鼓台=2021.12刊『企画展 明石の布団太鼓台』より転載)がある。1畳積みの蒲団型とはいえ、和坂太鼓台の場合、蒲団の厚みは一般的な蒲団型の3倍ほどもある。
明石・和坂太鼓台の1畳積の蒲団型を引き合いに出すまでもなく、毛布状の1枚蒲団(天井を覆う厚手の布状のもの)を積んだカタチであれば、各地でも散見されている。(下記に例示)私は、これら厚手の布状のカタチが、〝複数畳の蒲団を積み重ねる太鼓台の以前に存在していた〟のではないかと考えている。これらは単に、日除けや雨除けの〝屋根〟に相当するものかも知れないし、少し高尚じみて〝飾り天井〟として採用されたものかも知れない。しかしながら、これらの厚手の飾りが、後に1畳や複数畳の蒲団に変化・発展していくことを妨げるものではない。複数畳の蒲団を積み重ねた以前の蒲団型太鼓台のカタチは、恐らく毛布状・厚手の布状を1枚積んだ下記各地のようではなかっただろうか。このような1枚の飾り布を積む太鼓台を、私は、複数畳を積む蒲団型の前に登場或いは存在していた「1畳蒲団型」と仮称し、「前期・蒲団型太鼓台」と名付けたいと思う。その意味合いは、〝蒲団を重ね積む以前に存在していた、簡素な過渡期的蒲団型太鼓台〟と言うほどのものである。
最初の2カ所は、布状もしくは薄い蒲団状のもの。左から、宇和島湾沖の日振島に存在していた「ヨイヤセ」(平天井の上に厚めの黒い布状を飾っている。廃絶)、こちらも宇和島市近くの愛南町柏の「四つ太鼓」(布状のものは、日振島より厚くなっている様子)。次の2枚は、和歌山県御坊市の「四つ太鼓」で、幌のような帽子を被せている。「四つ太鼓」や平らな枠張りの天井を「障子・しょうじ」と呼ぶのは、南予地方と御坊市周辺だけである。(南予地方には3畳重ねの蒲団型の四つ太鼓もある)現在、私はこれらのカタチを「平天井型太鼓台」に区別しているが、上述した「前期・蒲団型太鼓台」として、今後は「蒲団型太鼓台」の前段に配置して考察するべきかも知れない。
(2)1本鉢巻型の太鼓台
天井を覆う厚手の布状のもの1枚を積んだカタチ(1畳蒲団型)以外にも、「前期・蒲団型太鼓台」と名付けたいカタチの太鼓台が存在する。1本の丸い鉢巻状を積んだ太鼓台(「1本鉢巻型」と仮称)である。冒頭の表では、このカタチの太鼓台を、3畳・5畳と巻き付けた「鉢巻蒲団型太鼓台」の中に含めて分類しているが、1本積みの特異なカタチから、鉢巻型に発展する要素を持ちながらも、後の「鉢巻蒲団型」が登場する以前から存在していた「前期・蒲団型太鼓台」と呼ぶべき存在のものではなかったか、と改めて再考している。「前期・蒲団型太鼓台」を強いて言えば、本物蒲団型・鉢巻蒲団型・枠蒲団型太鼓台の登場する以前の段階のカタチであると考え、「1本鉢巻型」と「1畳蒲団型」の2形態を、敢えて「前期・蒲団型太鼓台」と称するべきではないかとも思う。
上掲の太鼓台は、1本の鉢巻状を天井の上に積むカタチのもの。最初の2枚は、山口県周南市須々万(すすま)の「揉み山」(もみやま:花飾りを刺した4本の棒状にしている。この棒状は、元々は藁で丸い輪に拵えていたが、作るのに煩雑であったため簡素なこのカタチに変更された由。中央は造り物で、ミニチュアの俵を積み重ねている)後ろの3枚は種子島の「太鼓山」(通称は「チョッサ」)で、太い藁巻き(鉢巻状)に拵えている。以前の太鼓山は、写真よりも一回り小さかったと見学時に聞いた。これらは区別的には「鉢巻蒲団型太鼓台」としているが、こちらも、平天井型太鼓台から蒲団型太鼓台へ変化・発展する過渡期に存在していた「前期・蒲団型太鼓台」の「1本鉢巻型」として再考すべきかも知れない。
以上(1)(2)で眺めたそれぞれの太鼓台は、「本物蒲団型」「鉢巻蒲団型」「枠蒲団型」などに変化・発展していく要素を秘めていることから、大くくり的には蒲団型に属する太鼓台であると考えている。私は、これらの「1畳蒲団型」及び「1本鉢巻型」の太鼓台を、冒頭の発展想定図では、前者を「平天井型」に、後者を「鉢巻蒲団型」に含めている。これを、「前期・蒲団型太鼓台」として見直すべきできないかと考えている。下図右は、その間の事情を踏まえ、発展想定図に「前期・蒲団型太鼓台」を追加したものである。蒲団型となる以前のカタチは、このような厚手の布状(1畳蒲団型)や1本の鉢巻状(1本鉢巻型)を、四本柱上の天井(障子)に載せた「前期・蒲団型太鼓台」のカタチではなかっただろうか。
以下は(2)に続く。
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