太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

蒲団部構造(8)四国山地・大月の「ちょうさ」

2021年01月28日 | 研究

徳島県三好市(旧・三好郡)山城町・大月太鼓台

大月地区は、土讃線・阿波川口駅近くの旧・山城町役場(現・山城支所)から吉野川の支流・伊予川(銅山川)沿いに約6kmほど愛媛県方面へ西進し、国道319号線より橋を渡った対岸にある。大月地区に鎮座する四所神社の〝大月祭り〟には、戦前の盛んな頃には氏子域の谷筋毎に豪華な5台の太鼓台が奉納されていたという。現在は神社お膝元の大月地区で1台だけが奉納されている。徳島県西部の旧・池田町や旧・山城町の各地区には太鼓台が数多く運行されていた。「阿波の祭りと民俗芸能」「徳島県における祭礼山車の展開-文化交流史の視点から(共に高橋晋一氏等には、その分布概要が記されていて大変参考になる。

大月太鼓台の遺されている記録等を時系列で示すと以下のようである。

・蒲団部の最上段(8畳目。雲形文様の刺繍の裏地)に年号等記載⇒「安政五(1858)年 午七月吉辰 施主 藤原惣五良重信」

本来であれば5畳・7畳といった奇数の蒲団枠が普通であるが、偶数8畳の蒲団枠の存在は珍しい形態である。この最上段8畳目は蒲団枠ではなく、元々は薄い構造であった蒲団押さえが変化したものではないかと考えている。愛媛県西条市には、8畳の蒲団枠となっている太鼓台(みこしを含む)がある。大月の太鼓台も、もしかすれば彼の地との関連があるのかも知れない。この8畳目の蒲団枠に、写真のように雲形文様の刺繍が、赤布の上から巻き付けられている。2枚目の蒲団枠の構造写真からは、後の時代のこの規模の蒲団枠に備わっている閂(かんぬき)が無い。私たちは伊吹島太鼓台で、閂の無い蒲団枠を確認している。伊吹島の太鼓台は大坂直結の太鼓台であるが、これまでの調査では、古い蒲団枠は文化2年(1805)まで遡ることが出来る。その時代の伊吹島の蒲団枠は四辺がバラバラであった。隣り合った辺同士は、凹凸のひっかけで連結している。しかし蒲団枠同士の連結には、大月に備わっているような四隅の三角の固定材は無く、別な枠木を蒲団枠内部にはめ込むことで、積み上げた蒲団枠が崩れないよう固定していた。ここに掲げる大月の蒲団枠同士の結合には、枠四隅の三角の枠固定部分を固く結び合わせ、蒲団枠全体を一体化させている。蒲団〆は、次項の保管箱の蓋書きにあるように明治15年製である。4枚目は、太鼓台の全景で昭和60年当時のもの。後方の大樹は、大月・長福寺の大イチョウ(県の天然記念物)

・蒲団〆・水引幕の箱書き⇒「明治15壬年(1882)旧九月吉日」

前項の蒲団〆とこの水引幕は、1882年から撮影時の昭和60年(1985)当時で、既に100年近くが経過している。幕は部分的に欠けている部分もあるが、現在も現役で使われている。刺繍の内容も、所謂武者ものの物語となっている。袴の沢瀉(おもだか)紋や胸元の笹竜胆(ささりんどう)紋などから、恐らくは源頼光にまつわる物語からのものであると思う。(源頼光と卜部末武主従の追手から、自らの召喚獣である悪龍を出し、その隙に逃れようとする鬼童丸をテーマに表現していると推定。参考『四天王剿盗(しょうとう)異録』

・昼提灯の購入年(口伝)⇒「明治23年、観音寺から」

1枚目の写真は大月の昼提灯で、2枚目は大月の昼提灯と兄弟提灯の西山太鼓台の昼雪洞を並べて比較した「太鼓台文化の歴史展」での一コマ。大月および西山の両地の関係性については、別稿で詳しく述べられているのでご参照いただきたい。

※昭和60年頃の大月太鼓台

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(終) 


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