明石市・穂蓼(ホタテ)八幡神社の太鼓屋台
写真は昭和30年(1955)頃のものと聞く。この屋台(太鼓台)の存在は、冊子『明石の布団太鼓』(H26・明石の布団太鼓プロジェクト刊)に掲載されていた写真(P20)で知った。蒲団部の不揃いなデコボコ状態にピーンと感じるものがあった。「この太鼓台、もしかして、これまでに見学してきた数の少ない本物蒲団型太鼓台(考察1の太鼓台の種類図参照)ではないか! 」一気に興味と期待が沸いた。「なぜ、波打つように不揃いな蒲団部なんだろうか?」特に蒲団部四隅の不揃いさが目立つ。これは何としてでもこの目で実見して、その状態を確かめる外はないと思い立ち、冊子発行元のプロジェクト・Y.F様に問い合わせ、地区の長老の方にもご足労頂き、神社境内の休眠中の屋台蔵を開けていただいた。
※「本物蒲団型太鼓台」 蒲団部が四角の本物蒲団を積み重ねた形状の太鼓台。現存する地方は少なく、実見しているのは愛媛県愛南町深浦の「やぐら」(下・左)と広島県呉市豊町沖友の「櫓」(下・右)しかない。蒲団型太鼓台の最も初期の段階に登場したもの若しくはその名残を残していると考えられる。
これがデコボコ蒲団の正体!
長い袋状の中は、主に藁や葦を束ねて詰め、外形を丸く古綿でカタチを整えていた。下写真のように経年変化で型崩れをし、決して安定しているとは言えない。なんと、これを蒲団に見せていたのだ。太鼓台は数十年も奉納したことはないらしい。実際の太鼓台では赤い蒲団に見せるため、この棒状に赤布を巻き付ける。手にしてみたが柔らかく、蒲団部として形作るには骨が折れたことと想像した。
太鼓台の蒲団部の拵え方を地区の古老の方々からご教示いただいたが、この棒状に赤布を巻き付け、蒲団台の上に4本ずつ四方へ並べ、それを5段重ねの五畳蒲団に組み上げる。各蒲団の赤布の縁(へり)の部分だけを見せ、蒲団の内部は空洞の拵え。柔らかい棒状の袋を5段積み上げ、その固定は龍の蒲団締めだけで行うので、相当にきつく型崩れの心配の無いように固定しなければならなかった。他地方のこのような蒲団部構造(鉢巻型蒲団太鼓台や初期の枠蒲団型太鼓台)では、その中央に四角の箱や竹籠を伏せて組み上げ、蒲団部全体の型崩れを防ぐ構造になっているが、この太鼓台では棒状の各辺を組んで積み上げているだけの構造であった。
※「鉢巻型蒲団太鼓台」 本物蒲団型太鼓台よりも、組み上がり状態がより均整の取れた蒲団部として登場したのが鉢巻型蒲団太鼓台であると考えられる。鉢巻型になるとかなり各地で散見されている。素朴な順に下写真の上から、愛媛県伊方町川之浜の「四ツ太鼓」、京都府京丹後市此代の「だんじり」、八幡浜市保内町雨井の「四ツ太鼓」、兵庫県たつの市新宮町千本の「屋台」などがある。
上の千本屋台になると、蒲団部の材質は古綿を詰めて拵え、組み上げる前から四角の輪状の枠に拵えられているので、次の蒲団部発展段階の「枠蒲団型太鼓台」に近い形態と考えられる。(枠蒲団型太鼓台については別の機会に紹介する)
また、以下の鹿児島県西之表市の「太鼓山=種子島ではチョッサと称す」や、山口県周南市須々万の「揉山=もみやま」も、鉢巻型太鼓台に分類できると思う。種子島の太鼓山は1本の紅白の輪(藁を束ね、藁縄でぐるぐる巻きに固定し、紅白の布を巻き、拵えている。先代のものより一回り大きくなったと聞く)を天井に載せている。須々万の揉山は、現在は4本の麦藁で作った棒状をしているが、元々は種子島の太鼓山のように輪状のカタチをしていた。輪状に拵えるのが煩雑であったため、いつの頃よりか4本の棒状に変化したと聞く。
かなりの大型であるにも関わらず、4本の棒状で蒲団1畳に見立てた明石市・穂蓼八幡神社の太鼓屋台と同様の蒲団部を持つ太鼓台が、その後、奈良市・南北三条太鼓台にも存在していることが判った。奈良市・南北三条太鼓台の蒲団部構造については、穂蓼八幡の太鼓屋台と比較しながら、次回の考察(3)にて紹介したい。
(終)
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