3.古刺繍の〝連鎖の確認〟と工房・松里庵以前について
「その家の特徴の縫いの流儀というものが、作品には出てくる」‥この言葉は、観音寺の工房・松里庵3代目・(故)髙木一彦縫師からの聞き取りである。明治以降、髙木定七縫師が率いた松里庵・髙木工房では、当然ながらその家の作風・流儀といった不文律的なさまざまな技法が、作品の隅々に注意深く散りばめられている。それらの技法が、果たしてどのようなものなのか。どのような箇所に配置されているのか。それらは一作品だけではなく、多くの作品に共通・普遍的に確認できるのものなのか。また、作品の主テーマの部位なのか、それともそれ以外の余白部分等に、意識して用いられているのではないか、等々。このような視点を持ち、細かく気配りしながら、上の各表にて明治後期頃迄に制作されたと推測できる、このエリアの多くの松里庵・古刺繍作品に向き合ってきた。表中に、同じ作品が他の特徴の項に重複して記載されているのは、それだけ工房の特徴なり技法なりが複雑に絡み合い、作品に表現されているからではないかと、私は理解している。
このエリアでは、太鼓台装飾刺繍の先駆者として2名の縫師が有名である。一人は観音寺の松里庵初代で、琴平出身の髙木定七縫師(1852~1920)であり、今一人は、定七縫師より10年ほど遅れて登場した阿波・箸蔵村西山(現・三好市)出身の山下茂太郎縫師(旧姓川人、1861~1930)である。私の取材では、この二人の縫師は、明治中・後期の一時期、同じ工房(観音寺の松里庵・髙木工房)にいて、切磋琢磨していた可能性が極めて高い。勿論、大量の太鼓台刺繍を作るためには、他の大勢の縫師たちの存在を抜きにすることはできない。
残念ながら、この地方の太鼓台の豪華刺繡の誕生や発展の状況については、ほとんど判明していない。特に、観音寺以前の髙木工房の琴平時代における制作事情や、髙木家以外の縫屋や縫師の状況がどうであったかなどについては、何ら把握できておらず、全く未解明のままである。確かに、琴平金山寺町大火のあった天保9年(1838)の時点では、松里庵・髙木家と同一と見られる「髙木屋」が、芝居小屋の裏手に確認できる。髙木屋前の小道を挟んですぐ真向いに「白川屋・縫」があった。(髙木屋は焼け出されたが、白川屋は延焼を免れている)この白川屋と髙木屋とには、どのようなつながりがあったのだろうか。白川屋は縫屋であり、主としては芝居の衣裳や歓楽街・金毘羅の芸妓たちの、豪華な刺繡入りの着物を制作していたのではなかろうかと、私は考えている。その理由として、太鼓台はまだまだ草創期の色が濃く、豪華な刺繡などをほどこすには至っていなかったと考えられるからである。このエリアの天保期以前の太鼓台の装飾事情は、観音寺市沖の伊吹島中若(南部)太鼓台のように、全てが「大坂・直結」に近かったのではないかと考えている。中若(南部)太鼓台には、文政6年(1823)の水引箱が遺されている。その箱は小さくて薄く、今日的な厚みのある水引幕に近いものを保管することなどできないものであった。恐らく、薄い布地状のものを畳んで保管していたものと想像する。
西条祭りの「みこし」(蒲団型太鼓台に大きな車が付属したようなカタチ)を天保6年(1835)頃に描いたとされている絵巻が存在する。(20212刊『西条祭礼絵巻』福原敏男氏著)その絵には、幅の狭い水引幕や黒の細い蒲団〆及び小型三角形の高欄掛(三角蒲団)などに、簡単な刺繍らしきが確認できることから、当然ながらこのエリアにおける当時の太鼓台にも、西条のみこしと同様の簡素な刺繍が縫われていたものと思われる。その供給地はどこであったか。それは金毘羅宮の鎮座する琴平であり、上記の白川屋や髙木屋ではなかっただろうか。ただ、当時の太鼓台刺繡は、伊吹島・中若太鼓台が用いていたような水引幕(布地は高級だったかも知れないが、生地は薄かった)のことを考えると、刺繡の縫われた幕や蒲団〆などは、まだまだ無地のものが多かったと思われる。
また西条祭のみこし絵の存在は、少なくとも髙木・山下という、この地方の先駆け的縫師が生まれる2、30年も前から、既に太鼓台には何らかの装飾刺繍がほどこされていたことを明らかにしている。後に、山下茂太郎少年が縫師を志すきっかけとなったことに関し、「金毘羅大芝居を見たこと」(伊予三島で三代目の山下茂縫師の談)を挙げている。豪華で煌びやかな衣裳の存在が、茂太郎少年を含め、当時の人々にとっては羨望の的だったのだろう。
このエリアの太鼓台初見は、寛政元年(1789、大野原は奉納、伊予三島は新調)であるので、太鼓台登場から西条みこしが描かれた天保6年頃までの約50年間には、太鼓台装飾に関しても今日的豪華が当たり前だと想像することはできず、伊吹島のように、大坂直結か遅々としたものであったかも知れない。しかし、太鼓台装飾刺繍の発展に関しては、それ相応に進みつつあったものと考えなければならないだろう。私は太鼓台刺繡に影響を与えたのは、当時盛んであった地芝居の豪華な歌舞伎衣裳ではなかったか、と推理している。
今回、途中報告的に作成した上記の各表からは、歌舞伎衣裳(相撲の化粧回し等も含む)と太鼓台刺繡の双方の、明らかな酷似・共通点や関連が見えている。それも、琴平出身の松里庵・髙木工房を介して。衣裳制作の縫屋の高度なそれまでの技法を受け継ぎ、歌舞伎衣裳の刺繡を太鼓台刺繡に昇華させたのである。昇華させた例として次の2例を挙げたい。最初の例は、上表➌に挙げた大向太鼓台(まんのう町)の龍虎の蒲団〆である。ここに縫われた龍は、現在と比べて立体感が乏しく平面的な縫い方をしている。その後、龍虎の蒲団〆は各地での完成度を高め、明治43年に至り豪華な本若太鼓台(観音寺)の蒲団〆へと繋がっていく。平面的縫の衣裳の龍が、厚みのある太鼓台・蒲団〆の龍へと発展した例である。次の例は、❽の新浜子供太鼓台(坂出市)の扇獅子である。扇獅子は、扇を2枚重ねて頭上に被り、それが唐獅子を表しているというものであり、歌舞伎の演目・石橋(しゃっきょう)物に使われている。松里庵では、この扇獅子を唐獅子の蒲団〆として用いている。これなどは、歌舞伎との深い繋がりがなければなかなか思いつかないアイデアではないかと思う。観音寺では、この扇獅子を、髙木家が氏子となっている琴弾八幡の、奉納順・奇数号の太鼓台に採用されてきた。
上表❶➋➌に採り上げた波涛・波頭・岩肌は、作品としては主テーマ部分ではなく、どちらかと言えば余白処理に近い部分での出現である。松里庵が手掛けたこのエリアの刺繡作品には、他地方のように、制作した工房等を示すネーム付は無い。それ故に、私たちは古刺繍実見に際し、工房の特徴が潜む「さまざまな特徴・技法」を的確に掴むことが求められてくる。そのような地道な作業を通して得られた、上表❶~❽記載の特徴的な技法を、「工房・松里庵の流儀」として、工房特定の尺度としても良いのではないかと、個人的には考えている。
太鼓台装飾刺繡が華やかに豪華になる以前の、このエリアの「ルーツ的太鼓台とはどのようであったか」を、より一層知りたいとの想いから、太鼓台刺繍発展期の明治時代に活躍し、当時はほぼ寡占的に制作していた工房・松里庵の古刺繍について、長年に亘り眺めてきた。現在はようやく、その概要が分かりかけてきた段階である。太鼓台刺繡の根っこには歌舞伎衣裳があり、その衣裳を一層立体化し豪華に昇華させ、太鼓台刺繡の礎が築かれたものと考えている。現在では更に豪華に派手に変化し、日々発展を続けている。
約200年という太鼓台刺繡発展の時間軸の中で、私たちは多くの新しいものを得た一方で、同時に多くの大切な遺産を失ってきた。過去のボロボロの刺繍の中からも、私たちに語り掛けてくるものがいっぱい詰まっていることを知った。それは、私たちをタイムスリップさせ、温故知新、新しい知見に結び付けてくれている。遺して呉さえすれば、解明できることが一杯ある。これからも外見的な豪華さだけに惑わされず、より深くより客観的に太鼓台文化の歴史や真実に迫りたいものである。
※本稿は、2023.6.25に実施された西予市シルク博物館での化粧回し等の調査・撮影の際に配布資料として作成したものを若干手直ししたもの。本件実施の報告等については、別途発信したいと考えているので、それまでしばらくの猶予をお願いします。
(終)
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