今回の発信は、前回の「太鼓台が導入された江戸末期頃の西讃〝村々の世情〟を考察する」(2022.5.22)の続編。
大野原は平田氏の町人請負新田、「小山」地区は平田氏のお膝元
観音寺市大野原町[江戸時代、現在の大野原町の中心部の殆どは、平田氏の開墾した町人請負新田であったため〝大野原村〟とは言わず、周囲の旧来からの村とは区別され、村を付けずに〝大野原、又は原中(ハラジュウ)〟などと称されていた]の旧小山地区・ちょうさ太鼓登場の背景を、典型的な町人請負新田の大地主・平田家との関係から、素人所見ではあるが、以下にあれこれと想像してみた。
四国・瀬戸内中央部のこの地方では、小山・ちょうさ太鼓が現時点での文献上の奉納初見(1789寛政元年。同年記録の伊予三島・神輿太皷の場合は寄付帳に書かれた年号なので、厳密に言えば、奉納又は新調が同年かどうかは分からない)であり、付近の町場や村々に先駆けて登場したことになっている。明らかに入植者の多い後発の農村部であった大野原に、当時としては高額で豪華な太鼓台が、どうして周辺村々よりも早く登場し得たのだろうか。その環境は、独立した村でもなく、言わば大地主が所有・経営する地所・小作地であったにも関わらず、である。当時の社会情勢を考えると、隣接する個々の村々は必ずしも豊かではなかったが、〝村全体が丸亀藩と契約(年貢村請制度)した年貢さえしっかり完納していれば、村内の百姓たちの自由度は、相当高く保たれていた社会構造〟であったことが、近年の多くの研究者の成果から明らかになっている。村々の一般的な農民は、やること(年貢完納)さえしておれば、藩政府や庄屋などの村政上層部からも比較的自由度の高い日常が確保されていたと言う。学校で学んだ厳しい封建制度一辺倒で、差別された日常ばかりではなかったのだ。
一方、原中(大野原)は平田氏が最終的に全資本を出して開墾した新田であったことから、投下した巨額の資本回収や、新田経営から得られる毎年の利潤確保が最大関心事であったと考えられるため、原中の小作人(‶表百姓や、下人=表百姓の配下"と表現されている)は、〝他の村々よりも年貢率も高く、自由度も制限され、隷属的な存在〟であったとされている。ならば、新規の太鼓台登場は、周辺の町場や自由度の高い旧来の村々の方が適していると思うのだが、どうであろうか。また信仰面でも、平田家の初代と二代目を祀っている大野原八幡神社(小山ちょうさ太鼓を奉納した神社)や、初代を供養した慈雲寺の創建も、平田氏と直接的な関係が深い。
大野原と伊予三島の1789寛政元年の文献登場や、近隣村々の太鼓台登場については、この時代、あちらこちらで勃発的に見受けられている。燧灘沖に浮かぶ伊吹島の上若太鼓台(西部)に、1808文化5年の「神輿太皷扣覚帳」(新調記録ではあるが、全く新規に造った記録ではないと考えるべき。島の口伝では西部が一番先に出来たと伝えられている。この扣覚帳の記載内容からも、太鼓台装飾品の本来あるべき記録が書かれていない部分も見受けられるので、私は次の代の太鼓台であると考えている。また下若太鼓台=東部で用いられた1805文化2年の「蒲団枠保管箱」が現存し、伊吹島の太鼓台記録の古さが偲ばれる)が遺されている。仮に、もう一代早い初代・上若太鼓台が存在していたとすれば、それは凡そ1750~1780年頃の時代想定となり(1750年頃は全てを拵え直した場合。1780年頃は、例えば装飾部分の大改造などで、本体・太鼓などは旧を使用した場合を想定)、小山ちょうさ太鼓よりも、伊吹島・上若太鼓台に軍配が上がる。しかしその年代的な開きは、長くて30年あるかなしかで、当時ようやく新田経営が軌道に乗り、大いに開発が進んでいた大野原としては、間違いなく近隣各地に比べ〝早い時代の太鼓台登場だった〟と言えるのではないか。因みに、伊吹島は、漁業稼ぎ(鮮魚運搬や、綿作に需要が高かった金肥の‶干しか"の供給を含む)の外、廻船業及び出稼ぎ(西宮の酒水運搬、淀川の三十石舟の船頭等)などで、上方・大阪と直結していた。その為に太鼓台の分野でも、流行していた大坂型の太鼓台を、一足早く直に導入したものと思われる。
近隣各地の文献に登場した太鼓台
伊吹島のような大坂との船便や交流を考えれば、大野原の場合は、大坂との直接的な関連はないように思う。しかし、大野原近郷の和田(豊浜町)や観音寺に湊があるが、小山地区の太鼓台奉納記録は、現時点、その両地を含む近隣各地よりも15年~20年程先行(観音寺で1809文化6年、伊予の川之江で1806文化3年)して文献に見られている。下表は、蒲団型太鼓台と見られる各地の太鼓台の装飾の様子を眺めたもの。(参考添付)
大地主・平田氏は、太鼓台(ちゃうさ太皷)をなぜ導入したのか。
冒頭ブログ発信時(2022.5.22)には、平田氏お膝元の小山地区において、開墾資本を出した平田氏が信奉する大野原八幡神社へ「なぜ、周辺の隣接村々に先駆けて、最初に太鼓台を奉納し始めたのか」という、太鼓台奉納を開始するに至った理由を、全く考えもしなかった。今改めて考えれば、平田氏が自身の小作地において、強大な権力を行使して新規導入した太鼓台奉納を、〝新田経営に益があると自ら認め、或いは域内の融和・団結を積極的に後押しする〟ために、導入に至ったのではないか、との推測にたどり着く。それでは「その推測に至る根拠は何か」と問われたら、残念ながら明確には答えられない。強いて想像すれば、それは〝同様な他地方の成功した新田経営を参考にしたのではないか〟ということ位になる。類型の新田経営を行っていた先進地・畿内(とは言うものの、平田家の大野原新田開発着手は寛永20年1643のことであり、かなり早い時代の町人請負新田と位置付けられる)の成功事例なども、太鼓台の新規導入の情報源として得ていたのかも知れない。
そこで少し視点を変え、その時代の新田開発の一形態であった「町人請負新田」について、新田経営の先進地と言われている畿内の新田のことを、インターネットで紹介されている先学の研究等を縷々眺めてみた。新田の中には、「新田会所」という広大な屋敷地があって、そこには小作地から運ばれてきた年貢などを納める蔵も建ち並んでいた。会所は、新田の政務をはじめ、隣り合う既存の村々との折衝事など、また大野原の場合、時には藩主の来泊などにも用いられたようである。下の最初の写真と2枚目のイラストは、大野原開墾古図(1645正保2年、縦横6×4m余の和紙製古図をトレースして作成したもの)と、3枚目のイラストは大野原・平田屋敷(新田会所、1896明治29年)である。後ろの写真3枚は山本町河内の大喜多家の、現在の屋敷跡地である。
一方、畿内の町人請負新田については、国の史跡や府・市の管理などで多くの新田会所が保存・管理され、一般にも公開されている。大野原・平田屋敷と同様の豪勢な新田会所が、新田経営の中核施設として設置されていた。(〝新田会所〟でネット検索すれば、鴻池新田会所などについて概要が知れる)
太鼓台文化の先進地であった畿内と、大野原・平田氏の〝新田経営〟の比較・検討等について
あくまでも私見であるが、寛政~文化・文政期(18世紀後半~19世紀前半)に、既に大坂はかなり豪華で高額な蒲団型太鼓台の供給地となっていた。この時代には、畿内の町人請負新田の経営者たちと、京都から出た平田家とは、「新田経営に関するノウハウを共有していたのではないか」との予測が成り立つように思う。江戸時代初期以降、幕府や諸藩の肝煎りで、全国津々浦々で新田が新たに開墾されている。私たちは、このような大富豪の新田経営を、太鼓台文化を通して再検討してみる必要があるように思う。
現時点では、何一つつながり、共通するとの確信もないが、例えば、開墾時に入植してきた小作人に対する好条件の提示、経営利潤に直結する代表的な換金作物・綿作の全国規模での拡大、多くの文人墨客の来遊、或いは新田経営成功譚の流布、高額な太鼓台の導入と順調な新田経営の発展(ほぼ重なる時代背景)なども、効率的な新田経営や半永久的な利潤を最優先する大富豪層は、〝小作人統治と新田経営は、いかにあるべきか〟を、高所から見下ろすような視点で眺めていたように思う。
今後、「私たちの探究するべきこと」とは?
太鼓台文化が大坂・起点として西日本に広く伝播していることから、太鼓台と新田経営との関係を、西日本ベースで眺める必要があると思う。
❶西日本における町人請負新田を洗い出す。(年代順に一覧表示し、それぞれの新田の立ち位置や関連の有無を知る)
➋畿内の町人請負新田を知る。(「摂津・河内の新田会所」が参考となる)
➌平田家が、どこの新田経営を手本としていたかを探る。(京都・大坂を知る平田家が、大野原開墾に際して手本とした町人請負新田は、あるのか無いのか)
➍その中で、太鼓台(だんじり等も含む)を古くから登場させている新田(新田隣接地も含む)をリストアップする。
➎➍の新田について、その詳細を学ぶ。(導入に至る一定の類型がありはしないか等を探究する)
❻衣服革命&寝具革命・換金作物の最たる綿作と、西日本・各新田の関わり方を学ぶ。(共通点の有無がありはしないか)
以上、どの項目にしても専門性を要し、地道な取り組みが不可欠となる。四国の片田舎から、これら着眼点を成就させるには、74歳と高齢の私には、なかなか難しい。可能ならば、高い志を持つ若い研究者が、上記の項目を参考にされつつ、それぞれ独自の目線で取り組まれんことを、大いに期待したい。
(終)
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