伊吹島の太鼓台(ちょうさ)
蒲団部構造のトップバッターとして紹介する香川県観音寺市沖の伊吹島。四国対岸の仁尾・観音寺・川之江の三方からは、いずれも約3里とほぼ等距離にあり、燧灘の孤島である。近年の島はカタクチイワシの好漁場という地の利を生かし、讃岐うどんには欠かせないブランド煮干しの"伊吹いりこ"の産地として名を馳せる。この島に歴史豊かな年代物の太鼓台(ちょうさ)が3台ある。そのいずれもが、江戸末期の大坂直結の太鼓台を祖に持つ。蒲団部構造総集編でも紹介した『太皷寄録帳』(文化5年1808・西部)や『太皷帳』(天保4年1833・南部)及び「太皷水引箱」(文政6年1823・南部)などが保管されている。その他にも、大坂との関係を物語るものとして、安政3,4年(1856、57)当時の大坂・小橋屋呉服店の太鼓台見積書及び太鼓台粗図面等が遺されている。
蒲団枠
本稿のメインテーマの蒲団部に関連するものに、文化2年(1805)の<蒲団枠保管箱>と、当時のものと思われる蒲団枠の実物が現存している。箱には「永代濱・文化二年乙丑六月」との墨書があり、現在の大阪市西区靭公園辺りにあった生魚以外の塩魚・干鰯などを売り買いする永代濱市場との関連も認められる。
蒲団枠の保管箱とその内部。一本づつ分離し、外の丸みを帯びた部分は竹籠編み、内部と面取りした角は木でできている。隣同士の角をつなぐひっかけと穴がある。(東部太鼓台)
太鼓台の特徴
伊吹島3台の太鼓台を詳しく眺めると、四国側の太鼓台と異なる何点かに気付く。四国側の太鼓台もやはり大坂との関りがあるにはあるのだが、より色濃く影響を受けているのが伊吹島太鼓台だということになる。
①太鼓台の四本柱を上下させて太鼓台の高さを調整する「反り上げ」と称する機構が備わっていること。坂道が多く、担ぐ際の太鼓台の重心を低くすることや、隋神門を通過する際に太鼓台を下げる必要があるためと思われる。この機構は、貝塚の太鼓台・小豆島池田祭の苗羽(のうま)太鼓台・牛窓の本町太鼓台(小豆島から購入との聞取りあり)など、一部地方の太鼓台に限られている。中でも、特に貝塚太鼓台との酷似点が観察できる。
上段3枚は伊吹島西部太鼓台。(東部・南部太鼓台も同様な機構となっている) 中段3枚は貝塚の南太鼓台。下段図面は伊吹島・西部太鼓台の図面で、K・S氏(豊中市在住、丸亀市塩屋出身)が作図。子供太鼓台は明治4年(1871)製で、「せり上げ」状態を模していてバランスが良い。最後の写真は、伊吹島ではこの高さが普通だが「せり下げ」た状態をしている。現在、島では「せり上げ」機構を使うことはない。
②東部太鼓台の写真で見たように、蒲団部の1畳が四辺分離する枠型の蒲団構造であること。積み重ねられた蒲団枠を固定する方法についても、四国本土側で一般的な、各段の蒲団枠に設けた閂(かんぬき)構造を用いず、組み上げた蒲団枠全体に中から木枠をあてがい、5畳蒲団の全体を固定する方式であること。ただし、西部太鼓台では1畳が固定された枠型となっており、蒲団内部の木枠だけが旧態を留めている。南部太鼓台では近隣の四国側太鼓台同様、閂を用いた蒲団部固定方法に変化している。閂で各段の蒲団枠を固定するのは、内部から木枠で固定するよりも強度も高く組立作業も簡略化される。伝播当時は大坂の組立方式だったものが、作り替える際に近隣太鼓台の簡略化を取り入れ、蒲団部固定法が木枠から閂へ変化発展したものと考えている。
最初の写真は東部太鼓台の蒲団部内部。次の3枚は西部太鼓台。右2枚は南部太鼓台で、閂を採用している。
長い蒲団〆
蒲団〆についても四国側近隣太鼓台とは異なる形状をしている。四国側の蒲団〆が積み重ねられた蒲団部側面に各2枚づつ、4面あることから計8枚の蒲団〆で飾られている。これに対し伊吹島に遺されている古い蒲団〆では、蒲団部をその名の通り"締めることを目的"として、蒲団〆は長い帯状のカタチに拵えられている。飾りの刺繍は、長い帯状の各先端についている。そのカタチこそが、各地大型太鼓台の蒲団〆が8枚に分離する以前の形態であり、この部分にも時代性が潜んでおり、伊吹島太鼓台の遺産としての評価がある。
左2枚は伊吹島の太鼓台で、最初は西部太鼓台で蒲団部の天で蒲団〆を井桁に交差させている。次の年代物の龍蒲団〆は東部太鼓台に遺されていたもので、長い帯状の先端部分に刺繍がある。次の2枚は愛媛県八幡浜市保内町磯崎の四つ太鼓で、伊吹島太鼓台と同様な蒲団〆を採用している。最後の鯉の瀧上りの蒲団〆は高松市牟礼町・宮北落合太鼓台で採用している蒲団〆である。紹介したいずれもが装飾にだけ特化するのではなく、蒲団部の全体を〆て固定するという蒲団〆本来の目的を果たせるような作りとなっている。
以上のように、本稿で論及する伊吹島太鼓台の蒲団部の構造こそが、大坂直結の太鼓台であることを如実に物語っている。島に遺されている諸記録類からは、西暦1800年代初めには既に3台の太鼓台があったことが偲ばれている。四国側近隣太鼓台とは異なるバラバラの蒲団枠を伝え遺してきた伊吹島太鼓台は、太鼓台の文化史においても、蒲団部の発展過程を客観的に語ることのできる甚だ貴重な存在である。外観を一見しても、7畳以上の蒲団部を持つ他地方の大型太鼓台と何ら変わることはないが、このように遺していてくれさえすれば、蒲団部発展のストーリーを、太鼓台の歴史に興味を持つ大勢の人々と客観的に語り合い、共有することができる。
伊吹島太鼓台の3台の蒲団部を観察すると、島外近隣の各地太鼓台の前身が、恐らく元々は東部太鼓台の蒲団部のようにバラバラの枠であったものが、西部太鼓台や南部太鼓台のように、4辺を固定した枠型の、1畳毎の蒲団枠になったのではないかと偲ばれる。同時に、他地方太鼓台の利点を受け入れ、簡略化と強度の高い閂(かんぬき)の採用に至ったものと思われる。今日見る各地太鼓台の型崩れのしない蒲団部は、ますます太鼓台が大型化・豪華へと発展していくための必須アイテムではなかっただろうか。伊吹島では、島の立地条件から巨大な太鼓台は導入できなかったため、過去二百数十年それほどの変化なしで推移してきた。島外近隣各地では、蒲団部の簡素化と強度化を得て、今日見るような巨大太鼓台へと発展したものと想像する。
私たちは更に蒲団部の奥深さを追体験するため、伊吹島太鼓台の蒲団部のルーツ(伊吹島より先輩格の蒲団部のカタチ)を文化圏内に訪ね、同時に伊吹島太鼓台の蒲団部をルーツとする後続太鼓台への蒲団部を訪ねなければならない。次回は、紀伊半島・熊野市に伝承されている太鼓台「よいや」を、蒲団部を通じて語ってみたい。
(終)
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