太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

制作年代がほぼ特定できた蒲団部たち(総集編)

2020年09月25日 | 研究

蒲団型太鼓台の蒲団部の形状や発展段階を追跡・理解するため、各地に伝承されている蒲団型太鼓台の蒲団部について、現時点に私自身がほぼ制作年代を特定したものを、古い時代順に紹介する。そして別途稿を替え、本稿で紹介した太鼓台蒲団部の画像等を通じ、各地の太鼓台同士のつながりや蒲団部の発達経緯を論じてみたい。下図は、太鼓台発展過程における蒲団型太鼓台の位置づけ。図中「蒲団型」の部分が該当する。

「蒲団型」部分の解説

①本物蒲団型は、その名の通り本物の蒲団を積む。②鉢巻蒲団型は、蒲団の縁(へり)の部分を鉢巻状に拵えて外観を蒲団に擬して見せている。③枠蒲団型は、鉢巻型では装飾的に縷々難点があるため、鉢巻部分を形態安定する枠に変化・発展させたもの。枠蒲団型の最初は鉢巻蒲団型の形態を踏襲して、(a)各辺分解枠型のものが誕生したと考えられる。次に各辺の分解では組立が煩さとなるため、(b)蒲団の1畳分を連結して一枠(一段)としたものに変化・発展する。現今の大型蒲団型太鼓台は、ほとんどが(b)の各段分解枠型となっている。一体枠型(c)は、中型や小型の蒲団型太鼓台に多く、積み重ねられた枠蒲団を分解出来ないようにひとかたまりに固定しているもの。以上が一般的な蒲団部発展の順序であるが、太鼓台が流布している地域の特性(盛んな地方かそうでないか、他との交流があまりない単独の流布地域かその逆か、大型か小型か等々)によっては、現時点に実見できる蒲団部構造には以上の発展順序に適合しない場合もある。また欄外は、蒲団型太鼓台の天部外観が、平ら(平蒲団型)か、それとも反っている(反り蒲団型)かの違いを示している。

1.香川県観音寺市伊吹島の東部「ちょうさ」 文化2年(1805)

観音寺市沖の伊吹島には西部・東部・南部の3台のちょうさ(太鼓台)がある。3台は江戸末期の大坂から直結の太鼓台で、島には幕末期の大坂関連の遺産が伝えられている。その誕生順は、上若(西部)・下若(東部)・中若(南部)の順であると伝わる。西部には「太皷寄録帳」(文化5年1808)、南部には「太鼓帳」(天保4年1833)と「太皷水引箱」(文政6年1823)が伝えられている。ただ東部には、蒲団部に関係する遺産として「太皷寄録帳」よりも早い段階で、文化2年(1805)の「蒲団枠箱」と、実際に使われていた当時の蒲団枠が伝えられている。

2.三重県熊野市「よいや」 文政~天保期頃(1818~1844)

過去に「よいや」を拵え直した記録の、「屋臺改造記念記」(大正7(1918)年1月16日謹記)が伝えられている。記載によると、明治7年(1874)にそれまであった屋台が、古くなり痛みも出てきたので、大正7年に拵え直した経緯が書かれている。更にそれ以前、明治7年より以前に屋台があったことも記載されている。仮に、明治7年から大正7年の経過年数の44年を、明治7年以前に当てはめると1830年頃となり、文政~天保期(1818~1844)頃には既に「よいや」が存在していたものと思われる。

3.広島県大崎下島・沖友「櫓」 文政3年(1820)

水引幕を巻いて保管する箱の蓋に「維時文政三年(1820)」や「三井納」などとあることから、太鼓台の来歴が想像できる。

4.岡山県倉敷市下津井松島「千載楽」(せんざいろく) 文政8年(1825)

下津井港沖の小島で、人家も無人化し、現在は2,3人しか住んでいない。千載楽(太鼓台)は島の高台の純友神社に保管されている。ただ、神社そのものも荒れ放題となっており、残念だが千載楽もいずれは朽ちるものと思われる。千載楽に積まれていた太鼓-皮がやぶれていた-の胴内に、「文政8年(1825)大坂渡辺村北之町 太皷屋長兵衛」と墨書されていたため、千載楽の制作年代にほぼ間違いないものと推定した。

5.愛媛県八幡浜市保内町雨井「四ツ太鼓」 文政8年(1825)

雨井の郷土史家である故・米澤利光氏によると、四ツ太鼓は嘉永元年(1848)の地元・布袋屋(船主兼商人)の古文書に「御神輿様」として表記され、播磨の明石湊から積み下ったものと伝えられている。四本柱上部の蒲団部を密封する格天井に「時世乙酉(きのととり)秋八月」と書かれていることから、蒲団部を含む四ツ太鼓の制作は、文政8年(1825)または60年後の明治18年(1885)のことと推定される。当然ながら、四ツ太鼓は文政8年に明石で制作された太鼓台の可能性が大である。四ツ太鼓の格天井が、雨井に伝播した後に明治18年に修理等で新たに交換等されたとしても、四ツ太鼓に積まれた特徴的な鉢巻型の蒲団部は、文政8年からの旧来のカタチを継承していると考えてよい。

6.広島県三原市幸崎能地・四丁目「ふとんだんじり」(太鼓台) 天保年代か。1840年頃

この太鼓台は、同県大崎下島の大長・宇津神社(現・呉市豊町大長)で奉納されていた2台の太鼓台の内の1台で、元々2台の太鼓台は愛媛県新居浜市で神事に奉納されていた。大長では毎年の祭りで2台の太鼓台(大長では「櫓」と呼称)が激しく喧嘩をするので、村内融和を図るため、已む無く1台を明治時代に能地へ売却した。能地及び大長の太鼓台については『太鼓台文化の歴史』(2013.3 観音寺太鼓台研究グループ・刊)の55・56Pに画像と共に紹介しているが、その中で私は、新居浜側で制作されたのは幕末から明治初年頃と推定している。(他の方々の研究では、制作年は時代的に更に後年へずれ込んでいる)比較的新しい(明治3年1870頃の太鼓台)1台がそのまま大長に遺され、古い1台(幕末1840年頃の太鼓台)が能地へ売却されたと考えている。

7.香川県観音寺市大野原町田野々(たのの)「旧・ちょうさ」 安政五年(1858)

観音寺市豊浜町関谷地区から購入した太鼓台とみられる。伝わる道具箱には「安政五年」の箱書きがあった。この地方の当時の蒲団枠がどのようであったのかが良く分かる。

8.徳島県三好市山城町大月の「ちょうさ」 安政五年(1858)

蒲団部最上段(8段目)に飾る雲形刺繍-奇数の蒲団を積み重ねることが一般的であるが、何故か8畳ある。愛媛県西条市には8畳蒲団の太鼓台がある。私は、8段目は蒲団押えが発展・変化したものではないかと考えているーが遺されてきた。これには「安政五年(1858)」の墨書がある。

9.愛媛県松山市津和地島「ダンジリ」 明治7年(1874)

津和地島で最も早く出来た東小路ダンジリの「保里物箱」に、明治7年(1874)の記録がある。太鼓台自体も同年に新調されたものと思われる。

10.香川県三豊市詫間町箱浦「屋台」 明治8年(1875)

この太鼓台の四本柱の揺るぎを防止する「平桁」という部材に「明治八年」と書かれており、製作年が判明している。大型で豪華な太鼓台の多いこの地方では、明治時代の「基準太鼓台」として存在感を示している。現在は、香川県立ミュージアムに寄贈されている。

11.香川県三豊市山本町河内上「ちょうさ」 明治26年(1893)

この太鼓台は、伝わる道具箱の箱書きから明治26年に愛媛県四国中央市(伊予三島)で奉納されていたことが分かっている。現在の愛媛県東部から香川県西部にかけての太鼓台と比べても、それほど変わらない規模や装飾が施されている。

12.京都市木津川市小寺「御輿太鼓」(太鼓台) 明治31年(1898)頃

以前の稿で「奥田 久兵衛」に関係するとして引用・紹介した『住吉大佐「地車受取帳」と彫刻』(H17.8.30兵庫地車研究会・刊)に、小寺の太鼓台(御輿太鼓)が記載されていたのである。蒲団部の四隅が反り上がっている反り蒲団型太鼓台(蒲団型太鼓台の一種)を集中的に見学をしていた頃の平成18年(2006.10)の木津祭りに、偶然にも組立途中の小寺太鼓台に出会うことができた。当時は勿論この太鼓台の来歴等について全く知る由もなかった。後に、この本の中で、小寺太鼓台が明治31~34年頃に住吉大佐から購入された(らしい)ことが記されている。同書の32・74・83Pに「山城国相楽郡木津小寺 」とある。このことから、小寺太鼓台は大阪住吉大佐で明治31年(1898)頃に制作されたことが判る。当然、反りを持つ蒲団部もこの頃大阪で作られた可能性が極めて高い。

(終)


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