青山家の御先祖は山形県から安政6年(1859年)蝦夷地に渡って参りました。
小樽を本拠にしてこの石狩湾一帯に10ヶ統のニシン定置網を持ち、全盛期の大正3年頃の青山家の漁場では一万石以上の水揚げがあり、これを現在の価格に致しますと約25億円に相当するそうです。
その頃の御当主は2代目・政吉でした。
山形県酒田市というと日本一の大地主「本間家」の邸宅のある町ですが、後、3代目となる娘の政恵は何度も招かれ、その豪勢さにすっかり魅せられたのでした。
美意識の高い政吉親子は書や絵を自ら書くなど一流好みで、別邸の建築に取り掛かった時に、政恵は「本間家以上のものをこの祝津に建ててやろう」と決心したのだそうです。
そこで建てたのが今で言う別荘にあたる別邸だったのです。
政恵17歳の時でした。
山形県からわざわざ宮大工や左官・建具師・瓦師などを招き、総勢50数名の手で建築にあたりました。
材料も酒田から欅を大量に運ばせ、絵師・書家を招き、祝津に滞在させて作品を完成させたということです。
お金に糸目は付けませんと言うほどの見事な出来ばえ、見る者を圧倒させたと申します。
青山家の年間の収入が現在のお金で約25億円ほど、「お金は使っても使っても残る、使いきれ無い」という何とも羨ましい溜息が聞かれたというのですからたまりません。
(その頃お米の相場とシメ粕の相場が同じだったといいます。)
外回りから見る建物の至る所に彫刻が施され、銅板屋根・瓦屋根の豪壮な造り、建物の三方に庭を配し、松と石を組み合わせた趣のある枯山水の中庭があり、建物の中はさながら美術館と言ったところです。
15の部屋には当代の一流書家や絵師の作品がふすま絵に描かれており、それだけでも訪れる価値が御座います。
その上、床やなげしは欅のウルシ塗り、大黒柱は紫檀や黒檀を使っており、母屋の中にはに面した座敷の天井には幅90cmの神代杉が張ってあります。
襖の引手に七宝焼きを施してあり、当時は宝石と同じ価値があったと申します。
この様に大正の建築の粋を集めて建てられたもので、別邸の建築費は当時のお金で約31万円、当時新宿伊勢丹デパートの建築費が約50万円ほどと申しますから、如何に贅を尽くした建物であるかお解り頂けると思います。