今日、図書室で面白い本を見付けました。
『絵をかくたのしさ…大正時代の子どもの絵・2』杉本茂晴著です。
その本の中にある数多くの子どもたちの作品…
その作品は大正時代の子どもたちの作品です。
その作品の見事な描写力、
見事な表現力に驚かされました。
その子どもたちに図画指導したのは杉本茂晴先生。
杉本茂晴先生は当時小学校の先生でした。
絵が全くかけない先生だったのです。
しかし、その指導方法には凄いものがありました。
杉本先生の図画指導においてもっとも大事なこと…
それは『無言の指導』。
けっして一言の批評や助言も与えなかったそうです。
大正時代(現代に於いても)に大きな意味をもった杉本先生の実践。
クレパスを考案した山本鼎(版画家・洋画家)は、
当時、自由画教育運動を提唱していましたが、
具体的指導方法をしめしませんでした。
そのため、多くの批判をうけ、
また誤解もされたのです。
しかし、
自由画指導方法は、
教師の図画教育にたいする理解と情熱、
その教養と力量でなしとげられるということが、
杉本先生の実践によって証明されたのです。
結局、
自由画教育指導方法とは、
教師自身の人格とセンスに帰することになります。
教師が人格とセンスを自らみがき、
各人各様の指導方法を考案したうえではじめて、
本当の自由画教育がなしとげられるといえるのです。
ここに、大正期の自由画教育運動の可能性もあり、
限界もあったとみることもできるかもしれません。
これは、大正期の自由画教育に限った問題ではなく、
今日の教育全般の原点にかかわる問題でもあると思います。
美術教育の時間が益々少なくなっている現代の日本。
眼を育てる重要性を欠いた現代。
大正時代の子どもたちの絵を観て、
TAZUKO多鶴子は危機感が募るばかりでした。
画家として…
私は…
どのように動けば良いのか…
自問自答するばかりでした。
<山本 鼎>
(やまもと かなえ、1882年(明治15年)10月24日 - 1946年(昭和21年)10月8日) は、愛知県岡崎市出身で、長野県上田市に移住し、美術の大衆化、民衆芸術運動のなかに身を投じた版画家、洋画家、教育者である。画家で詩人の村山槐多は従弟。
美術学校時代
木版工房で9年間の年季奉公を終えた鼎は、他人の下絵を彫るだけの職人に満足できず、1901年(明治34年)、東京美術学校西洋画科選科予科に入学した。在学中の1904年(明治37年)、与謝野鉄幹主宰の雑誌『明星』に刀画「漁夫」を発表、海辺の人々の生活感を滲ませたこの作品のリアリズムは、複製技術を主体とする、従来の版画にない新鮮さを示し、新進気鋭の版画家として注目された。それは、絵師、彫師、刷師の三者を一人で行う画期的な創作版画であった。1907年(明治40年)、鼎は創作版画を奨励し、若い美術家や作家たちの創作拠点とすることを目的として石井柏亭、森田恒友と美術文芸雑誌『方寸』を創刊。資金難の中、雑誌の発行は困難を極めたが、1911年(明治44年)の終刊までに35冊を発行、美術・文芸の分野に独特の地歩を築きあげた。鼎は同誌に木版、石版、ジンク版などによる作品60点のほか、俳句、詩、評論、随筆などを発表している。卒業後、鼎は雑誌にさし絵や文章などを書き活躍を始めた。 1908年(明治41年)12月、鼎は『方寸』を母体として、発起人の一人として「パンの会」を発足させた。石井柏亭、森田恒友、倉田白羊などの『方寸』同人と、北原白秋、木下杢太郎らがメンバーであった。明治43年3月下旬から「上田朝日新聞」に、スケッチと文章による葉書通信『尋常茶飯録』の連載を始めた。北原白秋との親密な文学的交遊をうかがわせるエピソードとして興味深い。
フランス留学
明治45年(1912)7月、鼎は石井柏亭の妹、光子との結婚を石井家から拒絶されたことが発端で、パリへ旅立った。版画を製作し、絵を描き、エコール・ド・ボザール(美術学校)のエッチング科へも通うが、貧困の生活が続き、モデルのフランス女性が、あまりの寒さにストーブを焚いてくれと言っても、石炭を買う金が無く、手のひらでその肌を時々暖めてやりながら絵を描くこともあったというエピソードが残っている。一方滞仏中、島崎藤村との親しい交友関係ができ、藤村の『新生』に登場する画家・岡は山本鼎をモデルにしている。後に鼎は、フランスで得たものは、「リアリズム」であったといっている。
1916年(大正5年)6月、鼎はロシア経由で帰国の途につく。モスクワでは領事館の世話になり、帰国の旅費を得るため六カ月ほど滞在するが、この間、農民美術蒐集館を訪れ、児童創造展覧会も鑑賞した。モスクワ滞在中、北原白秋と懇意な青年と会い、白秋の妹、家子との縁談を紹介され、帰国した翌年(大正6年)二人は結婚する。
帰国後の活動
1918年(大正7年)には、戸張孤雁らと日本創作版画協会を設立。日本画、洋画と並ぶべき版画の独自性を主張するなど今日の創作版画の隆盛をもたらすことに貢献した。(「版画」という語は鼎の造語であるといわれている。「平凡社、世界大百科事典」)また同年、小県郡神川小学校で「児童自由画の奨励」の講演を行ったことを契機に、子供に自由に描かせる自由画運動を推進することになった。1919年(大正8年)には、農民美術練習所を開講し、終生農民美術振興に献身することになった。また、鼎は描きやすい画材の研究をかさね、クレパスを考案したことでも知られている。
晩年 [編集]
鼎は、フランスへ渡った当時、借金生活を送ったが、その後も農民美術の事業などで莫大な負債をかかえ生活は苦しかった。晩年は脳溢血で倒れ、療養生活を送った。1946年(昭和21年)10月8日、腸捻転を病み、手術後死去。
業績
鼎の自由画教育運動と農民美術運動は、1916年(大正5年)フランスからの留学の帰途、ロシアで見た児童画と農民工芸に注目、さらにトルストイが始めた農民学校の話に感激して、日本においても実行しようと始めたものであった。旧来の手本を模写させるだけの美術教育を批判、子供に自由に描かせる必要性を説いた自由画運動と、農閑期に工芸品を作り、副収入を得ると同時に、美術的な仕事を通して、農民の文化と思想を高めようとする農民美術の運動によって、鼎は大正デモクラシーの先駆者の一人として位置づけられている。
自由画教育運動
児童画の教育を改革しなければならないと考えた鼎は1918年(大正7年)、日本創作版画協会を設立、会長となり、自由画教育運動を展開した。この運動は全国的に教育現場で迎えられた。長野県では当時盛り上がっていた自由教育・個性教育思潮もあり、自由画教育運動は急速に普及した。1919年(大正8年)4月、長野県小県郡神川小学校で開かれた第1回児童自由画展覧会には長野県下から1万点弱の作品が寄せられ、7千人を超える児童が鑑賞した。
参考資料: 『絵をかくたのしさ・大正時代の子どもの絵2』杉本茂晴
著者:杉本茂晴・林曼麗
発行者:田中治夫
発行所:(株)ポプラ社
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『絵をかくたのしさ…大正時代の子どもの絵・2』杉本茂晴著です。
その本の中にある数多くの子どもたちの作品…
その作品は大正時代の子どもたちの作品です。
その作品の見事な描写力、
見事な表現力に驚かされました。
その子どもたちに図画指導したのは杉本茂晴先生。
杉本茂晴先生は当時小学校の先生でした。
絵が全くかけない先生だったのです。
しかし、その指導方法には凄いものがありました。
杉本先生の図画指導においてもっとも大事なこと…
それは『無言の指導』。
けっして一言の批評や助言も与えなかったそうです。
大正時代(現代に於いても)に大きな意味をもった杉本先生の実践。
クレパスを考案した山本鼎(版画家・洋画家)は、
当時、自由画教育運動を提唱していましたが、
具体的指導方法をしめしませんでした。
そのため、多くの批判をうけ、
また誤解もされたのです。
しかし、
自由画指導方法は、
教師の図画教育にたいする理解と情熱、
その教養と力量でなしとげられるということが、
杉本先生の実践によって証明されたのです。
結局、
自由画教育指導方法とは、
教師自身の人格とセンスに帰することになります。
教師が人格とセンスを自らみがき、
各人各様の指導方法を考案したうえではじめて、
本当の自由画教育がなしとげられるといえるのです。
ここに、大正期の自由画教育運動の可能性もあり、
限界もあったとみることもできるかもしれません。
これは、大正期の自由画教育に限った問題ではなく、
今日の教育全般の原点にかかわる問題でもあると思います。
美術教育の時間が益々少なくなっている現代の日本。
眼を育てる重要性を欠いた現代。
大正時代の子どもたちの絵を観て、
TAZUKO多鶴子は危機感が募るばかりでした。
画家として…
私は…
どのように動けば良いのか…
自問自答するばかりでした。
<山本 鼎>
(やまもと かなえ、1882年(明治15年)10月24日 - 1946年(昭和21年)10月8日) は、愛知県岡崎市出身で、長野県上田市に移住し、美術の大衆化、民衆芸術運動のなかに身を投じた版画家、洋画家、教育者である。画家で詩人の村山槐多は従弟。
美術学校時代
木版工房で9年間の年季奉公を終えた鼎は、他人の下絵を彫るだけの職人に満足できず、1901年(明治34年)、東京美術学校西洋画科選科予科に入学した。在学中の1904年(明治37年)、与謝野鉄幹主宰の雑誌『明星』に刀画「漁夫」を発表、海辺の人々の生活感を滲ませたこの作品のリアリズムは、複製技術を主体とする、従来の版画にない新鮮さを示し、新進気鋭の版画家として注目された。それは、絵師、彫師、刷師の三者を一人で行う画期的な創作版画であった。1907年(明治40年)、鼎は創作版画を奨励し、若い美術家や作家たちの創作拠点とすることを目的として石井柏亭、森田恒友と美術文芸雑誌『方寸』を創刊。資金難の中、雑誌の発行は困難を極めたが、1911年(明治44年)の終刊までに35冊を発行、美術・文芸の分野に独特の地歩を築きあげた。鼎は同誌に木版、石版、ジンク版などによる作品60点のほか、俳句、詩、評論、随筆などを発表している。卒業後、鼎は雑誌にさし絵や文章などを書き活躍を始めた。 1908年(明治41年)12月、鼎は『方寸』を母体として、発起人の一人として「パンの会」を発足させた。石井柏亭、森田恒友、倉田白羊などの『方寸』同人と、北原白秋、木下杢太郎らがメンバーであった。明治43年3月下旬から「上田朝日新聞」に、スケッチと文章による葉書通信『尋常茶飯録』の連載を始めた。北原白秋との親密な文学的交遊をうかがわせるエピソードとして興味深い。
フランス留学
明治45年(1912)7月、鼎は石井柏亭の妹、光子との結婚を石井家から拒絶されたことが発端で、パリへ旅立った。版画を製作し、絵を描き、エコール・ド・ボザール(美術学校)のエッチング科へも通うが、貧困の生活が続き、モデルのフランス女性が、あまりの寒さにストーブを焚いてくれと言っても、石炭を買う金が無く、手のひらでその肌を時々暖めてやりながら絵を描くこともあったというエピソードが残っている。一方滞仏中、島崎藤村との親しい交友関係ができ、藤村の『新生』に登場する画家・岡は山本鼎をモデルにしている。後に鼎は、フランスで得たものは、「リアリズム」であったといっている。
1916年(大正5年)6月、鼎はロシア経由で帰国の途につく。モスクワでは領事館の世話になり、帰国の旅費を得るため六カ月ほど滞在するが、この間、農民美術蒐集館を訪れ、児童創造展覧会も鑑賞した。モスクワ滞在中、北原白秋と懇意な青年と会い、白秋の妹、家子との縁談を紹介され、帰国した翌年(大正6年)二人は結婚する。
帰国後の活動
1918年(大正7年)には、戸張孤雁らと日本創作版画協会を設立。日本画、洋画と並ぶべき版画の独自性を主張するなど今日の創作版画の隆盛をもたらすことに貢献した。(「版画」という語は鼎の造語であるといわれている。「平凡社、世界大百科事典」)また同年、小県郡神川小学校で「児童自由画の奨励」の講演を行ったことを契機に、子供に自由に描かせる自由画運動を推進することになった。1919年(大正8年)には、農民美術練習所を開講し、終生農民美術振興に献身することになった。また、鼎は描きやすい画材の研究をかさね、クレパスを考案したことでも知られている。
晩年 [編集]
鼎は、フランスへ渡った当時、借金生活を送ったが、その後も農民美術の事業などで莫大な負債をかかえ生活は苦しかった。晩年は脳溢血で倒れ、療養生活を送った。1946年(昭和21年)10月8日、腸捻転を病み、手術後死去。
業績
鼎の自由画教育運動と農民美術運動は、1916年(大正5年)フランスからの留学の帰途、ロシアで見た児童画と農民工芸に注目、さらにトルストイが始めた農民学校の話に感激して、日本においても実行しようと始めたものであった。旧来の手本を模写させるだけの美術教育を批判、子供に自由に描かせる必要性を説いた自由画運動と、農閑期に工芸品を作り、副収入を得ると同時に、美術的な仕事を通して、農民の文化と思想を高めようとする農民美術の運動によって、鼎は大正デモクラシーの先駆者の一人として位置づけられている。
自由画教育運動
児童画の教育を改革しなければならないと考えた鼎は1918年(大正7年)、日本創作版画協会を設立、会長となり、自由画教育運動を展開した。この運動は全国的に教育現場で迎えられた。長野県では当時盛り上がっていた自由教育・個性教育思潮もあり、自由画教育運動は急速に普及した。1919年(大正8年)4月、長野県小県郡神川小学校で開かれた第1回児童自由画展覧会には長野県下から1万点弱の作品が寄せられ、7千人を超える児童が鑑賞した。
参考資料: 『絵をかくたのしさ・大正時代の子どもの絵2』杉本茂晴
著者:杉本茂晴・林曼麗
発行者:田中治夫
発行所:(株)ポプラ社
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