TAZUKO多鶴子

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和歌山『補陀洛山寺』にも昨日行きました…

2009-08-01 | TAZUKO多鶴子からの伝言

< 補陀洛山寺(ふだらくさんじ) >
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある、天台宗の寺院。補陀洛とは古代サンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳である。
「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界遺産に登録されている。補陀洛渡海
補陀洛は『華厳経』ではインドの南端に位置するとされる。またチベットのダライ・ラマの宮殿がポタラ宮と呼ばれたのもこれにちなむ。中世日本では、はるか南洋上に「補陀洛」が存在すると信じられ、これを目指して船出することを「補陀洛渡海」と称した。記録に明らかなだけでも日本の各地(那珂湊、足摺岬、室戸岬など)から40件を超える補陀洛渡海が行われており、そのうち25件がこの補陀洛山寺から出発している。

* 渡海船*
船上に造られた屋形には扉が無い。屋形に人が入ると、出入り口に板が嵌め込まれ外から釘が打たれ固定されるためである。その屋形の四方に4つの鳥居が建っている。これは「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の死出の四門を表わしているとされる。
渡海は北風が吹き出す旧暦の11月に行われた。渡海船は伴船に沖に曳航され、綱切島近くで綱を切られた後、朽ちて沈むまで漂流する。もちろん、その沈むさまを見た人も、渡海者たちの行く末を記した記録も存在しない。
渡海者と金光坊
渡海者たちについて詳しく記した資料は残っていないが、初期は信仰心から来る儀礼として補陀洛渡海を行っていたと考えられている。平安・鎌倉時代を通じて6名が渡海したと、補陀洛山寺に建つ石碑に記されている。これが戦国時代になると60年間で9名もの渡海者が現れたという。このころになると、熊野三山への参詣者が減少したことから、補陀洛渡海という捨身行によって人々の願いを聞き届けるという形で宣伝され、勧進のための手段としての側面が現れたとされる。
16世紀後半、金光坊という僧が渡海に出たものの、途中で屋形から脱出して付近の島に上陸してしまい、たちまち捕らえられて海に投げ込まれるという事件が起こった。後にその島は「金光坊島(こんこぶじま)」とよばれるようになり、またこの事件は井上靖の小説『補陀洛渡海記』の題材にもなっている。江戸時代には住職などの遺体を渡海船に載せて水葬するという形に変化したようである。


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