佐藤匠(tek310)の贅沢音楽貧乏生活

新潟在住の合唱指揮者・佐藤匠のブログです。

エフゲニー・キーシン ピアノ・リサイタル

2006年04月24日 00時45分50秒 | クラシック

 

 土曜日のハシゴの最後。

キーシンのピアノリサイタル。

りゅーとぴあコンサートホール。

 

 そう、上越で合唱団ぽこ・あ・ぽこさんの演奏会が。

重なっていて行けませんでした。

後藤先生の初演に立ち会いたかったです。。。

 

 さて、実は前、りゅーとぴあのオープニングの頃に

新潟でリサイタルがあって、その頃は僕は東京に居て

聴きに行けなかったが、その時の評判は人から聞いていたので、

是非今回は行きたいと、N-PAC Mateの先行予約で早々チケットをゲット。

僕にとって非常に理想的な場所で聴くことが出来た。

 

 観客は大入り満員とはいかず、

ブロックによっては空席があった。

一体新潟はどうしたらコンサートが満席になるのだろう。。。

 

 さて、プログラム。

前半はベートーヴェン。

ピアノソナタ第3番ハ長調と

ピアノソナタ第26番変ホ長調「告別」。

後半はショパンのスケルツォ1番~4番まで全曲。

 

 

 登場。キーシンは思ったより大きかった。

しかし何と言うか、独特のオーラがある。

 

 さて、相当楽しみにしていたこの演奏会。

僕は緊張して、奏でられる最初の音を聴いた。

 

 

 そして、すぐに惹き込まれた。

 

 

 率直に言って、凄かった。

3番は聴いたことがあったのだが、

なんだろう、ここまで完璧な演奏を初めて聴いた。

 

 聴いていて一番感じたのが、その構成力の凄さ。

 

 とにかく、無駄な音が一音たりとも無い。

奏でられた音全てに意味がある。

つまり、音全てに必然性があるのだ。

つまり、曲全体が、キーシンの意図で結ばれている。

音が必ずどこかまで行って、そしてまた始まる。

全てが意味のある音。

 

 この間聴いたブーニンもそうだったが、

大抵、どれだけうまいピアニストでも、

聴いていると、本番中に、

「んっ、今の音何だ?」という、

曲全体から外れた音、

つまり、大きすぎたり、小さすぎたり、

そこだけがクローズアップされてしまう瞬間というのがある。

それは、どれだけ練習しても

なかなか2時間の演奏の中で、カバーできない出来事でもある。

 

 しかし、このベートーヴェンにおいては、

それがなかったのだ。

全てがキーシンの技術で正確に貫かれた演奏。

そして、その演奏は、非常に説得力あるものだった。

そう、例えば緩徐楽章は、明らかにロマンチックで、

古典派とは言い難い演奏だった。

しかし、その演奏は、

どこかを強調したりどこかを引き伸ばしたりという

不自然さが決してなく、

最初から最後まで緊張感を維持したものだった。

 

 構成力の確かさ。

 スケールの大きさ。

 演奏の緻密さ。

 

ここまで凄い演奏を初めて聴かせて貰った。

 

 

 とにかく、あまりにもベートーヴェンが素晴らしく、

僕は前半で本当に満足してしまった。

これだけで12,000円の価値があったと。

実際、3番のソナタが終わってキーシンが一度引っ込んだ後、

客席もざわついていた。

 

 

 後半のショパンは

上記をそのままにしつつも、

もう少し自由さが増えて、また違った演奏になった。

やはりテクニックが凄いので、

細かいパッセージなどが非常にクリア。

そうして緻密でありながら

スケールの大きい演奏だった。

僕は1番が一番良かった気がした。

 

 

 さて、聴衆は大拍手。

アンコールがつづく。

 

 

 そう、ここでキーシンの弱点を発見した。

 

 

 

 真面目で律儀すぎるところ(苦笑)。

 

 

 前回、アンコールを6曲弾いたと聞いていたので、

正直どうなるのだろうと思っていた。

案の定、アンコールのたびに客席は盛り上がる。

いつからだろう、新潟の聴衆がイタリア人化したのは。

スタンディングオベーションと歓声。

 

 僕は、アンコールの5曲目の

モーツァルトの「トルコ行進曲」で、

「これで終わりにするのが”粋”だろう」と思っていた。

しかし、イタリア人化した聴衆は拍手をやめない。

というか、辞めるすべを知らないと言った方が正しいか。

僕はその後拍手を止めた。

しかし拍手は止まないので、キーシンは出てくる。

しかも本当に律儀に、

同じように各方面に挨拶して引っ込むことを繰り返す。

僕は途中から、彼が出てきたときは、

その律儀さに対して拍手していた。

いくら高いお金を払っているといっても、

僕はアンコールを求め続けるのはどうなんだろうと思う。

何曲弾かすんだと思いながら、結局キーシンは8曲弾いた。

アンコール8曲って、、、

でも、拍手をやめたと言っても、席を立たなかった僕も同罪か。

聴いていたいという気持ちと、日本人としての慎みとの間で

揺れ動いていたわけです。

おそらくキーシンは慣れっこだったのだろう。

でも、終わらせるための方法ってあって、

ピアノのふたを閉めたり、

なかなか引っ込まないで長い間挨拶して引っ込んだり、

言葉で「ラスト」と言ったり、

いくらでもある。

しかし今日の聴衆より優しく慎み深い彼はそれをしなかった。

もっと傲慢に振舞っても許されるだけの人なのに。

 

 

 だから、ちょっと僕の中では後味が悪かったが、

素晴らしいものを聴かせて頂き、

本当に良かった。

いやはや、凄いですよ。

ぜひ聴いて下さい。

 


瞽女唄~小林ハルからのメッセージ~

2006年04月23日 23時10分21秒 | 音楽

 

 土曜日の最初の演奏会。

瞽女唄ネットワーク企画提案のこの催し。

 

 瞽女とは、盲目の唄芸人。

厳しい訓練を積んで会得した唄を

旅先で門付けなどして渡り歩いた人たち。

小林ハルは、最後の瞽女として知られ、

もうすぐ没後1周忌を迎える。

瞽女唄ネットワークは、瞽女唄の保存と普及を目的に

平成3年に作られた。

第1部は、小林ハルの教えを受けた弟子などが瞽女唄等を披露。

第2部は、瞽女唄に詳しい方々でのシンポジウム。

 

 さて、最初に断っておくが、

前日の睡眠不足で、

睡魔との闘いになってしまった。。。すみません。

 

 それを恐れずに少し書くと、

聴きながら、保存伝承していくことの難しさというのを

感じたと言うのが正直なところ。

これは、民謡等全般に言えることではあるが。

 

 今となっては、多くの民謡は、保存会という形で保存され、

舞台という場で発表されるのがほとんどだと思う。

本来の役割を終えた民謡たちを、

生き生きとした形でどう保存伝承していくか。

シアターという場で演奏することで、

その課題が見えてきたような気がした。

 

 とはいえ、今までTVでしか見たことがなかったので、

瞽女唄の片鱗に初めて触れる機会があって

貴重な経験ではあった。

ところどころで、小林ハルの弟子たちが今なお、

瞽女唄を歌い継いでいる。

良ければ聴いてみてください。

 

 シンポジウムの途中で退席し、

一路新潟りゅーとぴあ、キーシンの演奏会へ。

 


土曜日の動き~久しぶりのハシゴ~

2006年04月23日 01時21分16秒 | 音楽

 

 土曜日。

 

 練習とかの外的な要因がなく、

久しぶりに、自発的に予定を入れました。

というか、詰め込みました。

 

 

 午前、紀伊国屋書店とヤマハミュージック関東新潟店へ。

ドーナツを買って一路長岡へ。

 

 

 途中、新潟ふるさと村に寄る。

スイーツフェアを冷やかしに。

FM-NIIGATAがかんでるこの企画、

土日、県内有名洋菓子店が出店。テーマはイチゴのスイーツ。

店によってはかなりの行列。

今日は当然、買うことは出来ないので、

店の案内のカードだけもらってくる。

いやー食べたいなーと思いながら振り切って長岡へ。

 

 間に合わないので三条燕から高速。

長岡リリックホールシアターへ。

瞽女歌の公演

(実はこれが撃沈。。。)。

  

 その後、国道8号線をマイペースに上り、

りゅーとぴあコンサートホールへ。

前から買ってあったエフゲニー・キーシンのピアノリサイタルへ。

そう、久しぶりに演奏会をハシゴしました。

このリサイタルは凄かった。

 

 終わったのが22:00過ぎ。

23時前に帰宅。

久しぶりに、無理やり予定を詰め込んだ土曜日でした。

 

 演奏会レポは明日以降に。

明日はブラスを聴きたかったけど、

今後休みが少ないので、夕方の練習まで家で仕事します。

 


肉体改造その3~女性の心理を中心に~

2006年04月21日 23時13分03秒 | 健康・病気

 

 最近、とみに思うことがあります。

 

 

 

 痩せたい。。。。。

 

 

 

 そう、ただ痩せたいのではないのです。

 

 

 

 部分痩せです。

 

 

 

 こんなことを考える自分が想像も出来ませんでしたが。。。

 

 

 

 最近、週1くらいしか泳いでないのですが、

一回行くと2,500mくらい泳ぎ、

その後で相変わらずプロテインを摂取しているので、

体格はがっしりしてきたのですね。

 

 

 それをそのままにして、

他のところだけ痩せたいわけです。

 

 

 どこか。

 

 

 

 顔

 

 

 

 と

 

 

 

 腹回り

 

 

 

 です。

 

 

 

 これ、多くの女性もそう思っているのでは。

まさか女性のの悩みを共有することになるとは。。。

 

 

 まず、顔。

 

 

 最近、将棋の駒みたいになってきたんですよね。。。

昔は、駒をひっくり返した感じだったんですが(苦笑)。

一時期は、

「口にあめ玉入っているの?」

と聞かれる始末。

頬の肉とあごの肉を取ってしまいたい。。。

そう思うわけです。

 

 

 

 そして、腹回り。

 

 

 なんと言っても、鏡に映ったシルエットが醜悪です。

水泳選手がかっこいいのは、逆三角形だから。

ウエストはそんなに太くないわけです。

だから、上が締まっていても、

ウエストが締まっていないと、

締まったことにならないわけです。

 

 

 ウエストが締まれば、

昔着ていたスーツも着られるようになる(笑)。

そう、何が勿体ないって、

ステージで2回しか着てないタキシードがタンスの肥やしに(笑)。

 

 

 

 そう、薄着になる夏までに、

何とか5kg落として、

引き締まった身体にする、

そう心に誓いながら、

今日も甘いものを食べるのでした。。。

 

 


柴田南雄考その2

2006年04月20日 21時09分35秒 | 合唱

 

 さて、、、

 

 

 引っ張ったわけではないのですが、

ずっと書きたかったネタを。

危険ですね~。マニアックネタ。。。でも読んでね。

 

 

 この記事、

「その1っていつだ?」

というツッコミが聞こえてきそうですが、教えます。

昨年の11月9日です。

すごいですね。5ヶ月以上引っ張りました。

 

 

 前回は、「人間について」知ってますか?という

問いかけと、若干の柴田南雄紹介で短く終わった。

今日はそのつづき。

 

 

 柴田南雄について細かく知りたい人は、

「わが音楽、わが人生」(岩波書店)に

相当とても詳しいのでそちらをどうぞ。

本人の著述で、柴田は相当なメモ魔だったので、

超マニアックな本です。

 

 柴田南雄を「合唱界」において有名にしたのは

やはり、「追分節考」だろう。

 

 マニアックな方は、

 

「優しき歌第二は?」

「3つの無伴奏混声合唱曲は?」

 

と言うかも知れないが(誰が言うだろう。。。)。

 

 追分節考は、東京混声合唱団の指揮者であった

田中信昭の「日本民謡を素材に」という

柴田南雄への委嘱に始まった作品。

 

 詳しい解説は省くが、

いわゆる民謡を素材にすると言った時、

この当時取られていたと思われるアイデアは、

日本民謡を西洋音楽の和声で編曲したり、

五線譜の上に民謡を乗せるといった、

西洋音楽一辺倒の中で生まれた味付けの仕方だった。

 

 そういった、民俗音楽のバックグラウンドを無視し、

そこから切り取った形で民謡が扱われたこと、

これらの動きに疑問を抱いていた柴田は、

民謡そのもの自体を、そのままの形で舞台に乗せようと考える。

 

 使った素材は、今言うところの「追分様式」と言われる、

一語一語をメリスマで引き伸ばすタイプの「追分節」。

長野県の民謡。

これは、日本民謡に対するオマージュのようなものではなく、

この様式が、モンゴルをはじめとした世界各地に

分布していることから選択されたわけで、

つまり、文化として民謡が伝播することを認識するため。

 

 そして、そういった民謡の在り方を考え、

ステージから一方的に聴衆に歌いかけるという

西洋音楽のスタイルを放棄し、

コンサートホールそのものを

一つの劇場空間、音空間として扱った。

歌い手が客席内を自由に歩き歌うことで(馬子唄なので)

音が動く!

聴衆はこれまで聴いたことの無い音空間に身を委ねることになるのだ。

 

 後にこれが、「シアターピース」と呼ばれ、

柴田の作品の中心を占めるようになっていく。

 

 追分節考は、それ以外にも本当に沢山の

アイデアや主義が盛り込まれていて、ここでは説明しきれない。

たまに、これらの柴田の意図から

外れた上演に出くわすことがあるのが残念だが、

上記の本を読むと、柴田がこの作品に、

もっと言えば、民謡などの民俗音楽に対し、

ひいては当時の日本の音楽教育に対し

どういう考え方を持っていたかがよく分かる。

そういう意味で、本当に柴田南雄らしい作品だと思う。

良くも悪くも頭でっかちなところが。

 

 この追分節考が初演されたのは

1973(昭和48)年、柴田が何と57歳の時だった。

その後、田中信昭、柴田南雄のコンビで、

沢山のシアターピースが初演されていく。

列挙すると「萬歳流し」「北越戯譜」「念佛踊」などなど。

 

 シアターピースの作風による分類については、

上記の著述に詳しい。

その中でも「大学生のための合唱演習」と柴田が自称した

「宇宙について」「歌垣」「人間と死」「自然について」。

これらは、単純に地方の民俗素材を用いた作品ではなく、

非常に多彩なテキストと音楽様式を用いた大作である。

こういったシアターピースを作るようになってから、

柴田の中で、「人間について」の構想が膨らんでいくことになる。

 

 

 そう、その「人間について」が初演されたのが1996年10月。

柴田が亡くなって8ヶ月経ったときだった。

そしてどういう巡り合わせか、

幸運にも、私は、その初演に聴衆として立ち会うことになったのだ。

当時新潟で大学生をしていたにもかかわらず、

なぜか、東京サントリーホールでの歴史的初演に

足を運んだのである。

 

(その3へつづく)