はじめに
下記の文章は毎日新聞夕刊(1973年9月11日)の「茶の間」欄に掲載された、小説家、フランス文学者山田稔さんが書いた短文。「老いの生き方」(鶴見俊輔さん)より引用した。
今回記事を書いたのは、この文章に目がとまったのがきっかけだ。読んだ瞬間にブログに書いてみようと思った。
酒
ちかごろは、全く酒を飲まなくなった。いや、飲めなくなった。
秋が来て、木の葉が黄色になり落ち葉するように、自然に、いつの間にか、飲めなくなってしまったのである。
以前は人からも強酒といわれ、自分もそう信じていた。七〇歳近くなりながら、去年の夏までは、まだ毎晩ウイスキーを飲み、四日で一本空けるのが普通だった。それが不思議なことに、いつとはなく飲めなくなってしまったのである。
ある作家が青年のころ、夜通し友人と飲みあるき、いつも家に帰るのは明け方になる。すると、戸を開けてくれる母親が、こういったそうだ。
人間には「分」というものがある。おまえが一生かかって飲む酒は、ちゃんと神様がその「分」を取っておいてくださる。だから、何もあわてて、無理をして飲むことはないではないか。ゆっくり、四〇年五〇年かけて飲めば良いのだ、と。
わたしは誰かの随筆で、そんな文章を読んだ記憶がある。この母親の説に従えば、わたしはわたしの「分」をすっかり飲み尽くしたのかもしれない。神様がとってくれたわたしの酒樽は、もう一滴も残さないのだ。
酒はやめてしまったが、いわゆる禁酒の苦しみやつらさは、ちっとも感じない。むしろ飲むだけは飲んだという、さっぱりした、満ち足りた気持ちである。すべてが自然の移り変わりのような気がして仕方がない。
春夏秋冬の移り変わりに似ているといえばーこれが「老」というものであろうか。
飲酒量は激減した
皆さんにも、酒と題するこの文章を読み、「何か人生の真実に触れた」思いを持たれた方がいるかと思う。筆者は、その通りと思った次第だ。
私は酒を飲む量が激減した。これは、飲むのを我慢している訳ではない。きっかけは脳梗塞である。
だが少しは飲みたい。飲むとアルコールが全身隈なく体中を巡るのが分かる。その感覚が新鮮で心地も良い。また、量の上限が小さくなった。少量、50cc程度を、ちびちび飲めばちょうど良い。適量を超えると、てき面にまずく感じる。
アルコールへの感覚が変わった原因は分からない。梗塞により脳細胞の一部が欠損したためかもしれない。
人生の酒を飲める量はあらかじめ決まっている説は知っていた。筆者は一生分を飲んだのだろうと思うだけで、悔しさはない。現実を受け入れるこころの余裕はあるようだ。
奥様と飲み会
昨年の大晦日に、夫婦でスパークリングワインを一本空けたのには内心びっくりした。退院後初めてのことだった。14時ごろから、あらかじめ用意してあったおせちを食べながら。途中中間休憩を挟み、22時ごろまでかけて飲み終えた。おしゃべりしながらゆっくりと飲んだからか、酔いはなかった。いい感じで飲み終えた。盛夏には冷やしたスパークリングワインをゆっくりと飲みたいと思った。
先日それ以来の飲み会を開いた。土用の丑の日、鰻をメインにした。次回は年末に開きたいと思っている。いや、四季に合わせてでも良い。秋か...............
寿命も神様はご承知かもしれない
酒だけではない。食事も大事にかみしめる。時間さえそうだ。残り少ない時間をかみしめないと・・・・。心地良い時間を過ごしたい。だれしも思うことだと思う。
時間の持ち時間も個人個人で、決まっているのではないかとさえ思う。
参考