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意思による楽観のための読書日記

大阪城 北川央 ***

大坂城、と聞けば多くの人は、特に浪速の人は太閤秀吉を思い起こすのではないか。上町台地の北西端に屹立して、築城当初は大坂の街のどこからでもそびえ立つお城が見えたに違いない。築城されたのは天正11年(1583年)で、当時は本丸への正門は南側の桜門だったが、文禄5年(1596年)には廊下橋形式の極楽橋が城の北側に完成。擬宝珠高欄がつけられた黒塗りの橋だったが、その後、金鍍金した屋根を設け、橋の中央に平屋作りの二基の小櫓を突出させたという。筆者によれば、文禄5年に淀川改修工事が行われ、左岸堤防上が京と大坂を結ぶ京街道として整備され、大坂城北口の京橋口につながることが関係しているとしている。しかし慶長5年、秀吉の死後に京都東山に豊国社建造の際、解体・移築され二階門となった。さらに、その後家康はその極楽門を琵琶湖に浮かぶ竹生島に寄贈。現在は国宝とされる竹生島・宝厳寺唐門がその極楽門とされ、江戸時代になって徳川秀忠により再建築されたため、現在豊臣大坂城の建築遺構としては唯一残存している建造物である。

豊臣大坂城は本願寺の石山御坊の跡地に建造されたが、大阪冬の陣、夏の陣を経て、大坂は徳川政権下で将軍直轄の地となり城も江戸幕府に任命され、西日本33カ国を管轄する大阪城代が責任者となる。大坂城には江戸時代金蔵が設置され、全国から集められる幕府への収入の4割がそこに収蔵された。それを狙う強盗が1730年捕らえられたが、盗んだのは4000両。捕まったのは大坂城本丸警備担当の中間で梶助。急に金回りが良くなったのを怪しまれて捕らえられて尋問で白状、町内引き回しの上磔となった。大坂城は秀忠のときに一度解体され、ほぼ同じ場所に小堀遠州の設計監督の元、西国、北国の大名普請として再建された。

秀吉を継承したのは淀殿との間に生まれた鶴松、のちの秀頼であるとされるが、ルイス・フロイスは著書「日本史」の中で関白の子ではないと記述、毛利輝元の重臣、内藤隆春は、秀頼の父親は大野修理治長であると記しているが、真実のほどは不明。

関ヶ原の戦いは家康率いる東軍は辛うじての勝利だった。というのも主だった譜代のメンバー、榊原康政、大久保忠隣、本多正信、酒井家次などは中山道軍で、それを率いていたのが徳川秀忠。行軍途中の上田で真田昌幸にさんざん翻弄され戦に間に合わなかった。東海道を進んだのが福島正則、池田輝政、黒田長政、浅野幸長、細川忠興ら。三成が憎いため東軍に身を投じた正則らは秀吉の子飼いで豊臣恩顧の大名だったが彼らの奮戦で勝利を得た家康は戦後、彼らに大幅な加増、西日本から九州に大大名として転封された。

大坂の陣で大活躍したとされる一人が真田昌幸、幸村で、家康は実は戦死したのではないか、その後は替え玉だったとする説もあるほど。また、関ヶ原の戦いで活躍した黒田長政の家臣で家老だった後藤又兵衛は、大坂の陣で豊臣方についた。彼を非常に高く評価していた家康は、寝返り工作、勧誘工作を繰り返したとされるが、成功していない。

大坂の陣のあと、戦死したと報告される人たちの生存説も数多い。秀頼の長男、国松丸やその他の子どもたち。淀殿の弟。秀頼自身。真田幸村の娘、お梅、お菖蒲、お田。その他、道頓堀の由来、桜田門外の変の後日談、慶喜による各国公司たちへのフランス料理によるおもてなしなど、大坂城にまつわるトピックスを50も提供するのが本書。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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