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意思による楽観のための読書日記

徳政令 なぜ借金は返さなければならないのか 早島大祐 ****

徳政令といえば「債務放棄を可能とする幕府による命令」と考えていたが、本書によればそれは当初の徳政令であり、その名の通り庶民にとっては善政の証しのような幕府命令だったが、その後の時代変遷とともに世の中から嫌われる幕府令となっていったという。鎌倉幕府崩壊以降は武家と公家による共同統治時代で、南北朝時代を経て戦国の世に突入、社会は荒廃していく。債権・債務放棄が可能な宣言が幕府から出される可能性があると考え、その後の世の中から社会信用が失われ、金融機能が不全となり、社会不安が高まったからである。同時に戦国の世の中になるにつれ、幕府や守護の戦争費用捻出のために、自らの債務放棄を宣言するようになると、それはもう庶民にとっては苦痛でしかない内容となる。

室町時代の寺社には財源となる荘園管理と徴税という権利が残っていた。しかし幕府による所領の支配も強まったため、荘園住人は、寺社や公家などの荘園領主との二重負担に苦しむ。最初の犠牲者は輸送を担っていた馬借と一般荘園住人だった。当初は領主代行からの借金で賄われたが、社会崩壊が進むと領主代行自身が債務を抱え、借金需要は、京に発生した土倉と呼ばれる金融業者に向かう。土倉は本来は荘園経営代行だったが、納税や収穫物保管を担っていたことから、金融機能も持つに至る。困窮した馬借・荘園住人による一揆はこのような背景で生まれ、1428年の正長の土一揆で悪徳金融を行う土倉は襲われ、社会不安解消のため幕府は徳政令を出した。この時代、債務は返却すべきものという価値観と、借金総額を超える利息を払えばお金はそれ以上返さなくてもいい、という価値観が平衡両立していた。しかし、地方と京、荘園主と住人の間の経済格差が広がり勢力の差が生まれると債権の法が優勢となり平衡が崩れた。これを不公平なこととして徳政一揆は起こり、政治不信へと一揆が向かうと、幕府は債務放棄可能な徳政令を発出せざるを得ない状況となった。

こうした徳政令発出は当然ながら、金融を行う土倉の経営を直撃し土倉の没落を招く。同時に、債務放棄を勝ち取った一部の荘園領主たちは経営を回復させ取り戻すことで、地域金融機能を再度復活させる。そのころ、地方の武家、守護たちの間における抗争は激化、武家牢人の増加が始まっていた。牢人たちは再就職のために京に向かうが、職に溢れた牢人集団と土倉や荘園領主に苦しめられる荘園住人や馬借の勢力に加わり、正長の土一揆、嘉吉の土一揆での単純な構図・性格が、徐々に京と地方、土倉と農民・馬借という単純な構図ではなくなってくる。

室町幕府は土倉酒屋役を大きな税収入としていたが、土倉の没落は歳入不全をもたらした。そこで考え出されたのが「分一徳政令」で、債権もしくは債務の一割を幕府に収めれば、幕府は債務放棄、もしくは債権の保証を行う、というもの。徳政令の発出がきっかけとなり、幕府による雑務沙汰訴訟制度が地方にまで普及し、借金の確保・放棄に関する裁きを幕府に求める動きが広がっていった。同時に幕府、有力守護による軍勢動員に伴う債務を徳政令が帳消しにするという動きが加わり、戦争への忌避感とともに徳政令への忌避感が強まる。荘園領主たちは、このような徳政令発出に備え、徳政令の対象のならないように工夫した新たな金融の方法を案出していた。土地を担保にするやりかたを、土地の売券を媒体とすることで不動産売買の形を取る、徳政赦免状のような契約を同時に締結するなどであるが、干ばつや戦争による不作など、借金需要はあるため、農民たちもこうした新たなやり方に巻き込まれていく。こうなると馬借による徳政一揆は農民にとっては、借金ができにくくなる厄介な存在へと変質、地域社会は分断に追い込まれていく。幕府による徳政令は荘園領主サイドであった寺社からも敬遠され、社会分断を招き地方勢力からも忌避された徳政令はその役割を終えた。

この時期から勢力を伸ばし全国統一を目指したのが織田信長と秀吉の政権で、全国度量衡統一を実施。公家・寺社・武家の3つの権力に支配されて来きた日本社会は、徴税と債権・債務管理においても異なる価値観で支配・管理されてきたと言える。これが武家による本当に意味での統一政権出現により、徴税、債権債務の安定的運用を見ることになる。信長は法令遵守の考えを「法度」の名で遂行。当初は織田家内での規範であった法度は織田家による領地支配が全国に及ぶに従い、武家、寺社、公家、そして庶民にまで及ぶことになる。

しかしその後も、秀吉による朝鮮出兵、飢饉や不作等による借金と棄捐令、幕末の各藩による債務超過処理、現在のデフォルトなど、近世から現代にまで社会全体が債務超過となる現象は続いている。本書内容は以上。

借金は返さなくてはならない、という価値観は織田信長の時代から定着し始めたというお話。しかしそもそも、徳政令発出のきっかけは飢饉や不作という自然災害だったが、それに社会不安や経済格差がその動きを助長したという背景もあった。法による支配という考え方が近代社会の根幹であること、日本史上で徳政令がそのきっかけとなったこと、災害が頻発する現代の状況を鑑み、改めて噛み締めたい。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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