タミル語を含むトラヴィタ語が話されている地域はインド西部で、現在タミル語が話されているのはインド南部とセイロン島北部である。タミル語を話すタミル人は現在1億人いるという。日本語はタミル語を見よう見まねで話をしたカタコト語であるピジン語でありこれをクレオール言語と呼ぶ。タミル語にある母音は日本語と同じaiueo、子音ではny、舌音のn、そしてnがあるが日本語ではすべてnに収斂されている。タミル語は膠着語、語順も日本語と同じである。
国造はなぜ「くにのみやつこ」と読むのか。これは「国の御奴子」だと筆者は言う。ヤッコとはタミル語では奴隷のように働くもの、日本ではこれは臣(やっこ)となり、中世以降視され「」と呼ばれた。国造は大和王朝たる「国」の使用人であり、大和国のために働く人であった。
敏捷に空を飛ぶ鳥ではない動物は「モマ」、これはタミル語の飛ぶ、蝙蝠から由来するという。日本語で小動物を指す「子」をつけて「モマのグワ」と呼ばれ、モモンガーとなった。ムササビはモモンガーより大きく、遠くまで飛ぶリス科の哺乳類。モマの手のように小さいということから紅葉(古くはモミチ)、カエデは「蛙手」に由来するのと同様である。
稲荷とキツネと油揚げはなぜセットになっているのか。タミル語でキツネのことを「イナリ」と言う。元明天皇の頃、秦伊呂具(ハタノイログ)という長者がおり、餅を的にして弓の稽古をした。矢が的にあたり、的であった餅は白い鳥になり山の峰に降り立つと、そこに稲が成り生えた。これがイナリの由来。白い、といのは輝く、という意味に解釈でき、餅は太陽を象徴、照り輝く太陽を象徴する。狛犬(こまいぬ)はタミル語の「コマ(神)」であり神の犬、稲荷神社ではコマ(神)をキツネとした。油揚げはタミル語の油がキツネを意味する単語と類似したいるためと解釈する。
ホトを箸で突いて死ぬ、という説話が古事記、日本書紀にある。ホトとは女陰であり、これでは恐ろしい説話である。これもタミル語で考えると、体を水に沈めて死ぬ、と解釈できるという。つまり身投げである。
常磐とかいて「トキワ」と読むのは、常陸を「ヒタチ」と考えたから。日立とはタミル語の東に由来、アズマは日が昇る場所、日立を常(ひた)地とした。タミル語でヒタチの同義語トキワに常盤というじをあて字したことから始まったのだという。
姫百合、鬼百合、という植物名があるが、いずれも姫、鬼ではなく、タミル語の小さいを意味するフィネが転じてヒメは小さいものを意味し、大きいというヲニが転じてオニに置き換わった。ヒネモスは一日中という意味だが、タミル語でヒメムスはぎっしりと詰まった状態、ヨモスガラは一晩中であるが、スカラは全部という意味のタミル語、昼はヒネモス夜はヨモスガラはタミル語だったのだ。
マナはタミル語では美しい、愛娘、愛弟子などに残る。真名井は美しい井戸、丹後の国風土記に出てくる丹波国に豊受大神が降臨した時に掘った井戸。この水でこの地を灌漑して稲を植えると秋には沢山の実がなったといい、「あなにえし、にうへやしこたは」と言ったという。これはタミル語起源で考えると、実に愉快だ、稲を植えて、大いなる繁栄が証明された、と解釈できる。
水辺で棚機女(タナバタツメ)という巫女が神の降臨を待つ、という農村の禊行事があった。この女性を神に捧げる、というシナの宮廷行事が習合して七夕が始まった。七夕をたなばたと読むのはここから来ている。ねぷた祭りのネプタは神への捧げ物、というタミル語と対応する。最初はニペタ祭りと言っていたのがネプタ、ネブタと変化したという。祭りの最後に船や神輿を川に流すのは、こうしたイケニエの風習が象徴化されているという。ワッショイという掛け声も奉納という意味のタミル語、ワッチョイだという。
日本語と朝鮮語で類似している語がある場合、漢語を除くとほとんどがタミル語由来であり、タミル語は朝鮮半島南部にも流入した。朝鮮半島にはアルタイ語系統も入り漢語も取り入れられて混合したのが日本語である。日本から朝鮮半島に流出した文化に前方後円古墳がある。しかし日韓の学会はこの事実に触れたがらないという。
スメラミコトのスメラとは稲妻という意味になるという。大野晋は「シュメール」つまり須弥山であると主張したが、筆者はこれには同意しない。稲妻を意味する単語が日本語のスメルに対応するからだと。雷電は稲作と関係し、タミル語では王を意味するという。クワバラというのは桑原と思っている人が多いが、これは後世の付会であるという。タミル語のカーバラ、怖い怖いという意味でクワバラクワバラとなったというのである。
紀伊と出雲には同一地名や神社名が多いのは、出雲の海部族が紀伊からの居住者であることを意味するという。熊野、美保(三穂)、日御碕、須佐神社、熊野大社、速玉神社など紀伊のほうが神社としての社格が高いからだという。
聖は「日知り」、タミル語では雷電と対応する。もとは徳が高い人であり仏教伝来の後に大王、そして僧侶を指すようになった。
タミル語のことを何も知らない読者としては、「そうなんだ」と思って読むしかないような本ではあるが、大野晋も孤独ではないんだ、というエールのような本である。なにより邪馬台国の場所、卑弥呼は誰か、などの解釈もできると言う所が面白い。古代史に関心があれば一読の価値はある。
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