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意思による楽観のための読書日記

私の先祖 明智光秀 細川珠生 ***

筆者は細川ガラシャの子孫というのが本書のアピールポイントで、明智光秀の娘である細川玉の気持ちと立場に立って、父である光秀の足跡を武将、家庭人、文化人という3つの視点から辿る。玉の長男忠隆の子孫が筆者で、兄も父も政治評論家の隆三と隆一郎、隆一郎の叔父が細川隆元、玉の次男の子孫が政治家の故園田博之さん、三男の子孫が細川護熙さんという関係。

武将としての光秀の出生から土岐氏仕官までは不明点が多い。土岐氏は美濃源氏に由来、平安時代の美濃の興り、足利尊氏に従って土岐頼貞が美濃の守護になった。土岐氏はその後200年、斎藤道三に追いやられるまで続いた家系。土岐氏には分家として明智氏、池田氏、多治見氏という氏族があるため、光秀もその土岐明智氏の繋がる可能性がある。妻の熙(ひろ)は妻木勘解由左衛門の娘で、妻木氏も東濃の土岐氏一族。その後は大河に描かれていたとおり、道三に追われた土岐頼芸に仕えていた光秀も美濃を追われた。その後信長に仕えることになるが、それは10年以上先のこと。

その後の6年ほどは、妻子を越前に置き、自分は一人で諸国修行の旅に出たという。目的は明智家再興のための情報収集と技術習得。寺の食客になり学問を学び、兵法、大名家の軍事体制、土豪情報収集、権力者と住民のより良い関係、砲術、鉄砲の術も身に着けたのではないかと推察。そして越前の朝倉氏の目に留まる。その後の細川藤孝や足利義昭、信長との出会いの基礎になる知識・経験はこの諸国行脚にあった。

大河ドラマを見た人なら、その後の活躍は物語でも描かれたとおり。義昭と信長の橋渡しの役割を果たしながら、信長からその能力を買われ1570年ころには信長に仕官することになる。光秀は巧妙に将軍義昭と信長を天秤にかけ、将来性のある信長に乗り換えた。細川藤孝はその動きをずっと見ていたはずで、その後の『本能寺の変』直後、細川藤孝、忠興親子が状況を慎重に見極めて秀吉に与する判断との関係も面白い。義昭が追放されたあと、光秀と織田家の重鎮村井貞勝が京都の所司代に任命される。任務は京都の町の行政・司法・寺社・公家管理全般で、今で言えば知事と警察、税務署、裁判所、宮内庁すべての長を兼ねるような権限を任された。そして丹波攻略、一向一揆制圧、松永久秀の信貴山攻略、その後建設される各地の城郭設計もアドバイザーを任される。丹波平定で光秀は信長家臣団の筆頭格となるが、その3年後に本能寺の変が起きる。

本能寺の変の原因と動機として考えられる説は次の4つ。筆者は動機は①③のハイブリッドだと。①怨恨説 光秀が敵方に差し出したままだった母親を信長が見殺しにした。家康饗応で罵られた。②野心説 信長の永くからいる部下たちよりも自分のほうが能力が上だと確信。敵は秀吉だけだと狙いを定めた。③不安説 信長の一国のリーダーとしての資質に疑念を持った。延暦寺の焼き討ちでの惨殺と宗教施設への無慈悲、無遠慮さ。④黒幕説。義昭の将軍復活、朝廷の後ろ盾、家康を暗殺するという命令があった、などなど。

亀山から夜明けに京都に入るのに従来はあった関所が信長により撤廃されていたので愛宕山を超えたことが信長に知られなかった、という説もある。山崎の合戦以降の秀吉の動きを見れば、秀吉こそ織田家を乗っ取るキッカケを狙っていたとも言える。光秀は自分で天下を取るとは考えず、藤孝や筒井順慶、高山右近などに期待したという仲間に託した、という考えもあるが、信長討伐があまりに突然の思いつきだったため、なんの下打ち合わせもできていなかった。

光秀には4人の娘、2人の息子がいたとされる。長女は荒木村重の子村次に嫁ぎ、背格好がよく信長の目に止まった次女は信長の弟の息子に嫁ぐ。そして3女とされる玉。細川忠興の妻として細川家に嫁いでいた玉は忠興と離縁した形を取り丹後半島の山の中、味土野に2年間幽閉、その後権力を握った秀吉に許され復縁して大坂に居を構えることになる。玉は幽閉されていた間に、キリシタンだった小侍女にキリスト教の教えを受けて、仏教にはない救いを感じ取る。その後の大坂での生活も忠興の嫉妬深い性格から、ほとんど幽閉生活とも言える状況だったが、小侍女によりリモート洗礼を受けてガラシャという洗礼名を受けた。結果的に忠興との間に5人の子をなすが、関ヶ原の戦いの折、細川邸を石田三成勢が取り囲んだ時に、自分以外の女性と子供を逃し、自らの小侍女の刀で死ぬことを選ぶ。

文化人としての光秀は、和歌、連歌の達人であり、津田宗及に師事して茶道にも精通していた。仏教とのつながりでは、延暦寺焼き討ちで壊滅状態になっていた坂本の西教寺を再興、妻の熙は西教寺に葬られた記録が残る。福知山では御霊神社が光秀を神様として祀っている。由良川堤防構築、明智藪の設置、地子銭と呼ばれる固定資産税軽減などで福知山の住民から支持されていたことが忍ばれる。本書内容は以上。

本能寺の変は、信長にないがしろにされた朝廷、天皇を尊崇する気持ちから、信長にこのまま天下を取らせるわけには行かない、という光秀の気持ちがあったという説は理解できる。その後のことはあまり考えず、とにかくヒドイやつ、信長はこの世からいなくさせる、これが本能寺の変の目的だった気持ちもよく分かる。その後の山崎の合戦や清州会議でも全くうまくやった秀吉、それはその後、世間の評判を落とさなかったこと。細川家も現代まで生き残ったことは、状況判断がいずれも正しかったことの証左。瞬時の状況判断を正しく行うこと、それは運の要素が大きくて、それまでの経験と知識の積み重ねだけではないような気もする。しかし『幸運の女神には前髪しかない』。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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