意思による楽観のための読書日記

継体天皇と朝鮮半島の謎 水谷千秋 ****

筆者2013年の著作、結論としては継体天皇(大王)は近江に生まれ、若狭で57歳まで過ごしたとされているが、その途中では朝鮮半島に渡り、百済の武寧王との親交があり、日本に百済経由で当時の進んだ文化であった中国の制度や考え方を五経博士を招聘することにより大和王朝(倭国)に取り入れた人物であったとする。

継体王朝の前まで政治の中心は大和・河内地方であったが、継体天皇の出身は近江湖北、基盤とするのは若狭、越前、そして美濃、尾張である。継体を支援した母体は大和地方の豪族で、主に大和盆地の東側に基盤を持っていた物部氏、大伴氏、和邇氏、阿部氏ら中央の非葛城系であった。当時はまだ九州の豪族も力を持ち、特に魏志倭人伝に出てくる松浦国や伊都国などの次の世代である有明海沿岸の諸豪族とは、当初は友好関係、その後微妙な関係であった。磐井の乱は継体即位直後に起こっているが、それを鎮めに行ったのは大伴金村、物部荒甲(アラカイ)、継体王朝で統一できた大和政権が、かねてより九州で独立する動きを見せていた磐井に攻撃を仕掛けたと見る。継体が若狭より即位した当初は、大和盆地の西に本拠地を置く葛城氏や南部の蘇我氏など反対勢力が強く、樟葉の宮(枚方市)、綴喜の宮(京田辺市)、弟国宮(向日市)、と大和盆地に入れなかったが、その後、葛城氏の権益を継承した蘇我氏と手を結び、即位後20年をかけて磐余玉穂宮(大和盆地の櫻井)に定着することができた。

継体王朝で実行された親百済政策(五経博士招聘と引き換えにした朝鮮半島四県割譲、部の民制度と氏姓制度導入、その後の仏教導入など)や当時の中国や朝鮮半島の先進的文化を取り入れる努力などの国際的開明性は、先代の雄略の政策を引き継いでいる。さらに、秦氏など渡来人を重用し、朝鮮半島で活躍し帰国した各地の首長に百済式冠や太刀を与えて評価した。生まれ故郷の近江高島の地には多くの渡来人たちが製鉄などの技術を持ってすでに生活していた。若狭にも秦氏一族がいて、当時の若狭は日本海を経由する朝鮮半島からの入口でもあった。日本書紀には生まれた近江から母とともに越前に移住し、57歳までそこにいた、と記述されるが、その間、近江と若狭、越前を行き来していたことと推測できる。

継体の墓は今城塚古墳だと言われているが、それと同型の古墳が宇治にある二子塚古墳である。現在ではその大部分が線路や住宅地になっているが、元は全長112メートルの二重の濠を持つ大きな前方後円墳であり、京都府でこの時期最大の古墳である。筆者の推測ではあるが、和邇氏が宇治には居たことから、継体后の和邇臣河内の女ハエ媛、もしくは秦氏関連の王族関連の人物を被葬者と想定できるという。

本書では氏の成立についても考察されている。倭人の名前は魏志倭人伝などでは卑弥呼、壹與、難升米など個人名、埼玉稲荷山古墳の辛亥銘鉄剣でも意冨比(オホヒコ)、江田船山古墳太刀銘文にも牟利弖(ムリテ)など個人名のみ。最古の確実な氏の存在を示す資料は、6世紀後半と見られる岡田山古墳の「額田部(ヌカタベ)」で日本書紀などによれば、継体から欽明朝には氏姓制度が成立していたと考えられる。物部、蘇我、大伴などはその時期からの呼び名で、権力者がその一族に呼び名を与える形で継承されたとしている。この頃の氏は二文字、中国は一文字が多く、古代百済の影響を受けていたと考えられるとしている。

武烈で途絶えてしまった大王一族の血脈を応神の5世代孫であるとされる若狭の継体を呼び寄せることで大伴氏、物部氏は朝廷に勢力を伸ばすことができた。大和朝廷内での葛城氏、蘇我氏と物部氏、大伴氏の勢力争い、倭国と百済を始めとした朝鮮半島等の関係や九州に残る勢力とのバランス、大陸や朝鮮半島に比べた時の文化的遅れとなど、こうしなければならなかった背景が解明できそうな一冊である。筆者はあとがきで述べているが、考古学的アプローチと歴史文献アプローチの協同が重要であると。ここにDNAや言語学、古代朝鮮史、中国古代史などを加え、古代史発掘ではぜひ学際的アプローチをお願いしたいと考えている。


↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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