見出し画像

意思による楽観のための読書日記

戦況図解 信長戦記 小和田哲男 ****

信長の家臣、太田牛一が書いたという「信長公記」をもとに、信長の動静が記録されていない130日間の出来事と、その後の出来事に焦点を絞ったという、「信長 空白の百三十日」という本を読んだことがある。その筆者は信長を裏切った惟任日向守(光秀)の部下でもあった斎藤利三が首謀者だったのではないかという仮説を建てているが、もちろん確証はない。

信長戦記という本書を通読すると、こんなに多くの戦いを続け、数しれないほどの一向宗たちを虐殺し、多くの部下に無茶な命令を下し、そして裏切られ、こんなにも多くの部下を粛清してきた信長を恨んでいた人間は多かったと考えられる。側近で最も信頼してきたはずの惟任日向守に裏切られ殺された信長であり、信長の首を取れば、その日を待ち続けてきた何人もの武将たちが味方になってくれるはず、という秀光の思いも大いに察することができる。細川藤孝が同調してくれないと知ったときの秀光の落胆は大きかっただろう。

さて本書、信長が戦ってきた戦については、数多くの書物があると思うが、その地図情報、包囲網のビジュアル、敵味方の裏切りと内通など、図解するとこれほど分かりやすくなる、というのが特徴。昨今、城が大好き、古戦場巡りをして楽しんでいます、などという人が多いが、本書はそうしたガイドブックにもなりそうである。

例えば、「どうする家康」で、最愛の妻と子どもたちを駿府に人質に取られながら、今川氏真を裏切り信長につくという判断をした松平元康(家康)が、産みの母於大の方の兄である水野信元に信長への口利きを依頼したことは、その理由がもう一つ不明である。その背景はドラマでは少しわかりにくかったが、信元の父が家康の父・松平広忠に臣従していたこととその後、勢力を伸ばす尾張の織田方について離反したこと、さらには広忠の兄弟で跡目争いを繰り返していた信定の娘を妻にしていることが、下記の信長と水野家の関係図から読み取れる。

また、今川義元の本拠地駿府と三河の岡崎、そして尾張の位置関係と距離感。「駿府に帰るんじゃあ」と岡崎城にいて叫んでいた元康は、当時一日で桶狭間の戦場に辿り着く場所にいたことがわかる。そしてその帰りたい駿府ははるか東の徒歩で4日ほどもかかる場所にある。今川義元が尾張の信長を攻めた理由は上洛するためだと言われたが、不安定だった三河を平定し、旧地を取り戻したかったからだというのが現代の説らしい。というのも、上洛するのであれば、その途上にいる斎藤龍興や近江の六角義賢らと事前協議していてもおかしくはないが、その形跡は見つかっていない。

今川義元を討ち取った信長が帰る途上にいた元康を見逃したのは、義元さえ討ち取ってしまえば、松平元康はこちらに寝返ることが読めたから。そうすることで、尾張と三河の境界線を確定でき、信長はその後の上洛に後顧の憂いなく進めるはず、との読みだった。

読んでいて最も心が締め付けられたのが、天正二年長島一向一揆殲滅戦図。
今では遊園地となっているあたりに追い詰められた2万人の門徒からなる長島一向一揆衆は、2ヶ月半、補給を絶たれた末に、降伏を申し出たが信長は拒否。8万の信長勢に取り囲まれたまま老若男女ともに焼き殺された。こうして、信長を苦しめ続けた一向一揆は、加賀・越前・摂津などとともに葬り去られ、残るは石山本願寺だけとなる。その石山本願寺も、大いに信長を手こずらせるが、天正8年に幕を閉じた。本書内容は以上。

これだけの殺戮を繰り返した信長が、極楽往生できるはずがない、こんな男に天下布武させてはいけない、と光秀も考えたのでは、と思うがどうだろうか。
 


↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「読書」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事