京都は歴史の街。多くのや在日朝鮮人の足跡が残されています。その理由を歴史からたどるのが本書。
平安時代以前から、京都には多くの渡来人が来ていた。秦氏、漢氏、坂上氏は渡来人として有名。灌漑と稲作、製鉄、瓦焼き、陶器などの技術を持ち、渡来して京の町のが形成される前からその地に住み着いた。嵐山に渡月橋があるが、秦氏一族がその場所に最初に作られた葛野大堰(かどのおおい)という堰を建設。稲作に必要な水源と水路を建設・確保した。この水源確保により、農作物が豊富に取れるようになり、古墳造営のための豪族の成立と財源が確保された。嵯峨野という地名はこうした農地という意味を持っていた。
稲荷神社の起源「伊奈利」とされる記述が山城国風土記に残されている。秦伊侶巨(ハタノイログ)が稲作でできた餅で的を作り矢を射かけたところ、白鳥になり山の峰とまった。そこから稲が生えてきたので「稲成り」と言われ、イナリと呼ばれたという。秦氏一族が神官を務めてきたのが伏見稲荷神社である。松尾大社の起源は「本朝月令」にあり、701年秦忌寸都理(ハタノイミキトリ)が松尾大社を造ったと記述。神社や神道も、渡来人のリーダシップで形成されてきたのが史実。有名な太秦広隆寺は秦河勝が創建した蜂岡寺に由来、半跏思惟像は朝鮮からもたらされたとされる。
記録に残るだけでも、平安京遷都で名を残す聖武天皇の母は、高野新笠で百済の武寧王の子孫。平安京の初代造営長官だった藤原小黒麻呂の妻は新羅から渡来人秦島麻呂の娘。技術者には秦都岐麻呂、造営使の菅野真道も百済系の渡来人、最澄の父も三津首百枝という百済系渡来人だった。
平安京に貴族が多く暮らすようになると、穢を清める必要が出てきた。国の中で一番人口が多い場所であった京には、多くの穢れが発生したため、そうした穢れを取り除くための人員も多く必要になった。京都の周囲にが多く残った理由がそれである。出血を伴う作業、出産、病気、弔い、牛の皮剥、内蔵処理など。そこでは、当時の被差別民が使役された。検非違使は、都の清掃も担当、死体の処理などを行なっていた。これもやと呼ばれる人達により行われた。被差別民は様々な呼び方で呼ばれた。正業で呼ばれた例としては、清目、庭者、細工、声聞師、千頭万歳、犬神人、三昧聖、餌取。居住形態で呼ぶ場合には、、、坂者、悲田院、獄囚。中世にと呼ばれたこうした人達は、江戸時代のとは異なる階層であったという。
芸能民もと扱われた。芸能は穢れの清めの延長であったためだ。猿楽、歌舞伎なども乞食(コツジキ)の所業と蔑まれた記述がある。慈照寺の作庭を行なったのが善阿弥、彼はであった。慈照寺作庭を命じたのは足利義政。以降、作庭は善阿弥の子孫が手掛け、江戸時代初期まで系譜が続く。江戸時代には草履、皮革職人がカワタ者と呼ばれた。明治維新で政府が恐れたのは流民(無宿、乞食、野臥)の起こす騒動。政府は、屠畜、皮革、衛生、芸能、興行を行政の管理下に置き、警吏が直接統治した。
大正時代以降の日韓併合で大勢の朝鮮人労働者が日本の連れてこられた。炭鉱や工場労働者、飛行場建設に使役され、200万人以上いた在日朝鮮人は、終戦後帰国者と残留者に分かれた。その結果五十万以上の在日朝鮮人が日本に暮らすことになる。京都の町にはこうした歴史が色濃く残り、多くの歴史的建造物に、現在でも朝鮮文化が見られることになる。