加治はまず龍馬暗殺の不自然さを挙げる。龍馬が刺客に反撃した形跡がない。ピストルを持っていたはずの龍馬はそれも使った形跡がない。通りを挟んだ向かいは土佐藩邸があるのに事件後すぐに誰かが駆けつけたという話もない。龍馬のガードマンだった籐吉は1時間もかけて陸援隊に知らせたというのが、なぜもっと近くにあった海援隊や土佐藩邸に行かなかったのかも疑問であるという。本の最後に筆者は中岡慎太郎が犯人だと主張する。当時無血大政奉還を唱えていたのは後藤象二郎と龍馬、岩倉具視、大久保利通を始め中岡や西郷も武力討幕に傾いていた。英国は公使のパークスが無血討幕を、サトウは武力討幕派を後押ししていずれに転んでも英国には有利に運ぶよう画策していたという。
蘭学者渡辺崋山は鎖国の愚を説き、高野長英はアメリカのモリソン号が日本人漂流民を1837年に返しに来たときに砲撃で打ち払った幕府を批判、戊戌夢物語で「馬鹿なことをすべきでない」と言っている。両名は蛮社の獄で処刑されるが、1846年にはビッドル提督、1853年にはペリー提督が来るがこれらも追い返している。ペリーはオランダのチッチングによる「日本風俗図誌」で日本を研究、強圧的な態度が有効と判断し1856年に開国を迫り成功した。
グラバーが日本の長崎に着いたのは1859年、21歳であった。ジャーディン・マセソン商会は中国に阿片を売りつけて儲けた会社。江戸時代の日本の石高は合計3000万、半分が税収とすると1500万、一石10万円とすると1兆5000億円、これが当時の国家予算と言うことになる。薩摩藩は77万石、加賀藩は102万石、同じ計算をすれば税収は335億円と500億円となる。しかし薩摩には琉球経由の中国ビジネスがあった、これによる収入は莫大であり加賀藩をしのぐ経済力を持っていたという。薩摩出身の明治維新の立役者といえば西郷、大久保、島津斉彬とくるが五代友厚はグラバーのエージェントとして働いていた、と筆者は推察する。グラバーは倒幕による自由貿易を目指し、五代らグラバー邸に集まる志士から情報を得て、新政府設立に役立つ議会や選挙の知識を与え続けた。
そして1862年、19歳のアーネストサトウが日本に通詞として赴任、オールコック、パークスに仕えた。このころの長州も薩摩も藩は尊皇攘夷と公武合体の二派に分かれていた。これに火をつけたのがグラバーやサトウの開国主張派である。薩摩の五代、長州の桂小五郎は開国派となる。そうしたときに薩摩藩士がイギリス人を斬り殺す生麦事件が発生、薩英戦争にまで発展するが、これが英国と薩摩を近づける。戦争を通じて五代、そして寺島宗則が英国と近づいた。後に五代は大阪府知事に、寺島はイギリス公使から外務卿になっている。
長州からはロンドンに次の5名が密航により留学している。伊藤俊介、井上馨、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助である。伊藤は松下村塾に入塾、松蔭に学んだ。同塾からは久坂玄瑞、高杉晋作、品川弥三郎、桂小五郎、山県有朋らを輩出している。松下村塾では飛耳長目を教え、情報収集の重要性を教え込んでいる。後に伊藤はグラバーと出会い、開国に向けた情報収集のエージェントとして働くことにつながった、と筆者は推測している。
そして龍馬である。グラバーは龍馬に目をつけた。開国のメリットを教え、議会や選挙のことを教えた。亀山社中を支援したのもグラバーである。龍馬が松平春嶽から多額の資金調達ができたり、薩長同盟を成り立たせたり、大政奉還を後藤象二郎に進言して人を動かせた背景にはこのサトウを通したイギリスの後押しがあった、これが筆者の推測である。これには傍証が多くあり信憑性がある。いろは丸沈没に伴う賠償金請求を紀州藩がなぜか受諾した、これにもイギリスの力があったという。紀州は家茂の死因にもイギリスの陰謀を感じており、逆らうと攻撃されるのではないかと思ったのではないかという。グラバーはこの時土佐藩を使い倒幕をはかっていた。
サトウがジャパンタイムスに発表した「英国策論」では船中八策のもとになるアイデアが表明されているが、グラバーも横浜新報で同じような援護射撃ともとれる記事を寄稿している。英国艦隊提督のケッペルスは1867年、日本の各地を戦艦とともに訪れる。英国の力を各藩に示し倒幕の動きがあった際にも各藩が倒幕に逆らわないように英国の強さを印象づけるためという。回ったのは東北各藩と北陸であった。東北列藩同盟には当初30もの藩が参加したが、最後に残ったのは会津、二本松、長岡、南部であり、いずれもこのときの英国艦隊を直接目にしなかった内陸の藩ばかり。
龍馬は姉に数多くの手紙を送っているが、その送料はいかほどだったのか。残っているものは12通、海をまたぐと4両程度の飛脚料がかかったといい、それは現代価格にすれば480万円にもなり、単に姉に近況を伝えることが目的ではなかったはずと推測、姉を中継基地にした土佐藩情報網への情報伝達が主目的、そのスポンサーはサトウ、英国であった、と推測する。イカルス号事件で英国人水夫2名が殺された、これをパークスは大騒ぎして慶喜に親書を送ってまで問題にしている。これは事件をネタにして土佐や大阪での討幕運動に火をつけるねらいがあったというのだ。
そして最後は龍馬暗殺、これの犯人を中岡慎太郎と推測する。現場状況から外部から侵入した犯行ではあり得ないと筆者は考えている。中岡は武力倒幕推進派、龍馬を片づける、これは武力での倒幕をねらう岩倉具視や大久保利通の書いた筋書きではないか、サトウはその後ろで糸を引いていなかったのか、と筆者は考えている。幕末から維新にかけて英国の狙い通りの活動をして生き残った長州、薩摩、土佐の若者は新政府の要職についた、これは薩長土の力、というよりイギリスの力だった、これが筆者の推察である。1902年の日英同盟はこうした活動の延長線上にあった。
フリーメーソンの関連についてはこじつけがましい部分が多いが、英国密謀はいかにもありそうで、傍証が多く見あたる、龍馬伝の新たな見方である。
龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン (祥伝社文庫)
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