明智光秀は、彼を取り上げた大河ドラマ「麒麟がくる」があり一時的に注目されたが、なぜ主君を打ち取りに行ったのか、その後はどうするつもりだったのかはよく分からない。同時代の宣教師、ルイスフロイスは光秀を「賤しき歩卒」と表現、同時代の書物にも「足軽から美濃の守護土岐氏に仕え、その後足利将軍家にも仕えた」とされ、低い身分から立身出世を遂げたのは間違いないところ。比叡山焼き討ちには反対したという記述が「天台座主記」にはあるため、大河では比叡山に同情的と描かれたが、一次資料には比叡山国衆への調略を積極的に進めていた形跡もあるという。焼き討ちの功績や将軍義昭の追放で信長の家臣となり、そして丹波攻めと続いて惟任日向守と名乗るようになる。信長がその後には九州進出を光秀に任せたいと考えていたとされる。
このころの光秀はまさに信長の右腕であり、丹波と滋賀坂本を領地とし、丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶、滋賀高島の織田信澄を与力として近畿管領という、ナンバー2の役割が与えられていた。本能寺の変でこうしたメンバーが従うことを光秀は期待していた節があるが、周囲からは信長の歓心を買う姿から、表裏のある悪辣さを感じ取られ、同僚たちは気を許していなかった、と筆者はみている。才覚はあっても人望がなかった、これが当時の光秀評。そのことを深く評価せずに断行してしまったのが本能寺の変だった。
四国攻めで、長宗我部元親との交渉を任された光秀だったが、信長が当初は元親に、四国は元親の切り取り次第、としていた約束を反故にしたことが、交渉決裂の原因と考え、自分の顔をつぶされ、自らの出世の道が閉ざされたと思い詰めたことを本能寺の変の原因とする説を紹介。本能寺の変の10日前には元親は信長に臣従する手紙を、光秀家臣の斎藤利三に送っていたことが2014年に見つかった文書でわかり、それが光秀の手元に届いていれば、謀反は回避された可能性もあるという。しかし真相は不明。光秀の地元、福知山では福知山城、黒井城、岡山城、亀山城などを築城した名手、飢饉時の税金免除などがあり善政領主だと評価が高い。合戦で見せた冷酷さとは対照的に家臣や地元民との関係は良好だった。
その他、実在が疑われる聖徳太子、山本勘助の正体、信長の実力は武力よりも経済振興力、辣腕を振るった徳川秀忠、西郷隆盛は敬天愛人よりも冷酷な人、坂本龍馬は明治維新以降に作られたヒーロー、業績は評価されるが女癖の悪かった渋沢栄一、、、などなど。日本史のエピソード集。