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意思による楽観のための読書日記

関所で読みとく日本史 河合敦 ***

関所にはその時代の権力者の政策が反映される。壬申の乱の時代には、愛発関、不破関、鈴鹿関があり、大和から大津に都を移した中大兄皇子、天智天皇が中国、唐からの侵入を恐れて、琵琶湖に逃げ道を求めると同時に、東国の勢力への防備にも気を配ったことが忍ばれる。皮肉にも、大友皇子と戦うことになった大海人皇子は、籠もっていた吉野の山から伊賀を抜けて三重に入り、東国勢力を味方につけると同時にこの3つの関所を手中に収めて、壬申の乱に勝利する。これ以降は、天皇の死や反乱が起きると、固関(こげん)と言ってこの三関を閉じ、畿内の動揺を抑える政策が取られた。弁慶と義経が呼び留められたのは歌舞伎では安宅関とされているが、資料で残るのは愛発関での出来事。

蝦夷との戦いが始まると、白河、勿来、そして日本海側に越後と出羽の国境の念珠(ねじゅ)に関所を設置。朝廷は東北の最前線を守ると同時に、蝦夷との戦いの最前線を北へと伸ばしていく拠点とした。蝦夷が服属すると、白河関の機能は失われたが、念珠は江戸時代にも庄内藩が鶴岡あたりに残し、鼠が関として地名も残る。坂東に武士の集団が勃興し始めて、馬に乗り街道を行き来する人たちを襲う僦馬(しゅうば)の党が跋扈すると、足柄と碓氷にも関所が設けられた。

古代の関所は中世になると、人身売買の防止や経済機能を持つようになる。京には7つ出入り口があった。鞍馬、大原、粟田、伏見、鳥羽、丹波、長坂であるが、その他東寺、木幡、荒神、竹田などにもあったとされ諸説ある。これらの通行料も朝廷や幕府の財源となった。社寺が荘園収入とともに当てにしたのが関所からの収入(関銭)で、一人当たり3-10文だった関銭は、朝廷の力が落ちて国衙領からの収入が減少したため、維持が難しくなった社寺にとっては重要な収入源となる。室町幕府将軍家には、幕府直轄領である御料所からの税収入に加え、高利貸しに与えた特権に代えて上納させた酒屋役、土倉役、日明貿易による利益、守護や地頭への分担金や賦課金、庶民からの段銭、棟別銭、港からの津銭、五山からの献金などがあったが、将軍夫人であった日野富子には、金貸し、米相場からの利益に加え、個人的に設置した関からの収入もあった。応仁の乱が始まり5年が経過した頃に、東西のリーダー山名持豊と細川勝元が相次いで死んでしまう。そこで、日野富子は、京都に陣取る大内政弘に390貫文を上納させて領地を安堵、畠山義就には千貫文を支払って京都から撤兵させる。

江戸時代になると、五街道が整備され、要所に関所が設けられる。有名所では東海道の箱根と浜名湖にあった新居(今切れの渡し)、中山道の碓氷と木曽福島であるが、大井川、天竜川、七里(桑名)の渡しも関所の機能を持った。必要なのは身分証明書に当たる往来手形と関所を通る関所手形。往来手形は農民ならば庄屋が、町民は大家が発行、武士は所属する藩の藩庁が発行した。大名は事前に幕府に申請しておくため手形は不要。男性ならばほぼ手形を確認されることもないが、女性、武器、普通でない様子の見受けられるものは厳しくチェックされた。女性は出産し、労働力は各地方の農業生産のもととなるため、チェックが厳しかったという。しかし江戸時代も後期になるとおかげ参りによる大量通過が始まり、チェックは甘くなった。幕末には江戸幕府の権威が失墜し、関所が薩摩藩などに占拠され、なし崩しに機能しなくなった。本書内容は以上。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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