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意思による楽観のための読書日記

お茶と権力 信長・利休・秀吉 田中仙堂 ****

室町時代から武家でも嗜まれるようになった茶道。武士たちも公家に負けない嗜みとして茶道に励み、唐物や名品と言われる茶道具を集めた。時代は室町から戦国、下剋上の毎日の情報伝達は手紙や忍び、噂などにより伝わるが、その速度は今では想像がつかないほど遅い。戦闘がありどこそこの大名の首がとられた、という情報が地方にまで伝わるには時間がかかった。おまけに、武士の強みは武力だが、その武力を自慢することは庶民に馬鹿にされた。つまり、戦いに勝って領地を得た、というようなことを離合集散を繰り返すライバルたちに自分からは言いにくい。戦いに勝つと、武士たちは相手が所有している領地と同時に、大切にする姫君や茶道の名品を召し上げた。取り上げた茶道の名品をお披露目できる場として茶会が利用されたという。その茶道を政治の道具として活用したのが信長。

公家の天下だった京の町に乗り込んだのが足利尊氏、そして武力とともに全国的に支配力を得たのは義満の時代だったといわれるが、文化面ではどうしても歴史ある公家の世界にはかなわない。そこで、公家が手を出していない世界、能と狂言、そして茶道に目を付けた。観阿弥、世阿弥を取り立てて、猿楽、田楽と言われた能楽の格式をあげることに成功した。そして公家も重用した唐物を名品として扱う茶道は、武家の嗜みとして公家に引けを取らない文化となりえた。その歴史を引き継いだのが信長である。戦国時代の茶会は、茶を飲むのではなく、その場に取り揃えられる茶道具を鑑賞する、そのために人を招待することで成り立った。室町幕府の将軍家には茶道具の名品が千点以上もそろっていた。棚に飾られた香炉、燭台、花立、香合、花瓶、盆、硯、筆、建盞(けんさん:中国の建窯で焼かれた茶碗)、茶碗、水指、そして壁面に飾られる絵画は、中国の作者である玉潤、牧谿、夏珪、徽宗皇帝などによる中国宋時代の画であった。

室町将軍家の力が落ちてくると、力を蓄えてきた地方の守護大名たちが将軍家流出のコレクションを手に入れる。それは、噂によりどこの大名がどの名品を手に入れた、という情報となり広まった。堺の豪商たちもこうした名品を手に入れ、お互いに贅を競い合った。津田宗及、今井宗久、千宗易などたちである。津田宗達、宗久、宗凡は豪商天王寺屋として「天王寺屋会記」として茶会の記録を残した。本書内容はこうした茶会記録によるもの。

信長は将軍義昭を奉じて上洛、権力者としての力を示すと、信長のもとには多くの茶器が献上された。特に松永久秀と今井宗久から名品を献上されたことがきっかけとなった。献上されたのは義満が所有していた「つくも茄子」そして武野紹鴎が所有していた「紹鴎茄子」、茶壷「松島」だった。信長は気づく、茶会を開くと、人々に自分に集まってきた権力の象徴としての茶器を見せる機会となり、それが自分の権力を示すチャンスにもなることを。さらに、その機会を自慢っぽくしないためには、茶道の頭としての茶堂として、津田宗及や千利休などを使うと洗練されて見えることも学んだ。茶堂の役割は茶道の作法よりも、飾られた名品たちの来歴を招待客たちに説明することだった。

信長が蘭奢待を切り取った話は有名だが、その切り取った一部を津田宗及と千利休の与えている。ちょうど石山本願寺攻略にてこずっていた信長だったが、堺の豪商たちが石山本願寺側に付かれてはまずいタイミングでもあり、信長が茶会の効用を感じ始めたころ。切り取りには堺の豪商たちも同行させ、切り取った一片は朝廷に献上、もう一片を信長はわがものとしたのである。ちなみに蘭奢待の所有者は東大寺、蘭奢待の字のなかには、東、大、寺、を含んでおり、従来名称は黄熟香、蘭奢待は雅名だという。

本能寺の変で、こうした状況は一変する。信長は京で茶会を開くため本願寺に滞在、安土城からほとんどすべての茶道具名品を持参していたため、本能寺の変ですべてが灰になった。毛利攻めで秀吉は備中高松城攻略のため出先、家康は武田勝頼討伐のお礼のために安土城で歓待ののち、京、堺を見物中、信長は、堺からの帰りの家康を京で茶会を催しもてなすため、信忠と少人数の手下を連れて本願寺に滞在。光秀は、その情報を知っていたと考えられる。信長は茶道に疎い家康に、歓待した安土城ではなく、堺で津田宗及の茶会に招待し、そこで茶の湯の意味をとくと学んでもらってから、京で自らが茶道具の披露をしようと考えていた。光秀は津田宗及から、この茶会情報を手に入れて、千載一遇のチャンス到来と考えたのではないか、というのが筆者の推察。しかし光秀に味方したのはほんの一部の武将たちで、多くは様子見だった。光秀はチャンスを捉えたかに見えたが、天下取りの中期ビジョンさえ持ってはいなかった。

秀吉は、その後権力を手に入れ、お茶会は信長に習って引き続き開いていたが、そうこうするうちに朝廷による叙階の方が、自分の権威、権力を確認する手段としては使い勝手がいいことに気が付く。本来は主君の子供たちは目上の存在だが、自らが内大臣から関白となることで、目上だったはずの信長の息子たちを従わせることが可能となった。また、同列だったはずの家康を臣従させることを明確に周りに示すためにも、位階、叙階は有効だった。当初は便利に使っていた千利休が、周りに強い影響力を示し、秀吉にさえ意見するようになると目障りになる。その時に気づいたのが叙階の活用であり、千利休の抹殺であった。本書内容は以上。

本能寺の変と千利休切腹、という二つの大きな出来事について、茶道という切り口から分析したのが本書。一読の価値、大いにありであった。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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