意思による楽観のための読書日記

アジア的生活 浜なつ子 ***

この方、2000年時点では45才、面白い書き手だと思う。目の付け所はアジアに暮らす庶民となぜか東南アジアにハマる日本人。

フィリピンで娼婦、ダンサーで生計を立てている32才の女性ルビーの取材記。フィリピンでは自分より困っている人が入れば、自分も困っていてもなんとか助けてあげる、これが人情、これができないフィリピン人は尊敬されないし、自分としてもやっていけないという。ルビーは5人の子持ちで3番目の夫がいるのにその男は21才で働いておらずヒモ的存在。しかし子どもの面倒を見てくれているのでルビーはそれでいいという。ルビーは1960年生まれ、両親はルビーが小学4年の時にいなくなり、叔母の家に預けられた。そして16才になったときマニラに出た。17才まで娼婦として働いたが体を壊してダンサーになり、19才で結婚、マザコンの夫とは2人の小を設けたが離婚、2番目の夫は女を作って家出、5人の子どもの母親となり実質的に一人で子供を養っている。そのルビーがそれでも幸せそうに暮らしているというのである。浜さんは日本の所沢に住むが、夫が定職をなくし、家を売るはめになった。その後、夫が浜さんの結婚したときに買った指輪を売ってしまったことを知る。その指輪もルビーだった。しかし、いい加減に生きると楽になる、ということを知り、自分も貧乏になって、貧乏が決して不幸であることにはつながらないことを知った浜さん。ルビーの幸せをルビーの指輪を失って知った、というおはなし。

フィリピンにはフィリピーナにハマって住み着いた日本人男性が1万人をくだらないという。その中の一人坂田さんは1955年大阪生まれ、バブルの時まで証券会社で1000万円以上の年収があり妻子もあったが投機に手を出し破綻、離婚してしまう。その後マニラでゴルフ会員権販売事業をする友人を頼ってマニラに職を得た。そこで一緒に暮らし始めたのがやはりフィリピン女性、しかし家をあけると家財道具を売り飛ばして逃げてしまうという。マニラでも無一文になった坂田さんは、住所不定になったが必ず誰かが声をかけてくれて泊めてくれ、食事にもありつけるという。この生活に馴染んでしまった坂田さんはもう日本には帰れない。フィリピンに助けられたのか、泥沼にハマってしまったのか、しかし坂田さんは幸せだ。

台湾生まれの日本人由木秋雄さん、ビルマではウー・ロウ・リーと名乗り赤龍飯店という名前の中華レストランを営んでいたが、1997年に死んだ。ビルマ人の妻と5人の子どもがいた。子供たちは父が日本人だったことを知らずに育った。ある時、娘の一人に日本留学の話があり、実現した。その時父が日本人だったことを知ったその娘、日本人との結婚が決まったとき、父は大変喜んだ。婚礼の9日後、父は死んだのだという。父はインパール作戦の第56師団、通称龍(たつ)部隊の生き残り、終戦後、通訳兼スパイだった由木さんは、捕まれば殺されると考えて、中国人になりすまし敗走する部隊から逃れてビルマに住んだ。第56師団の兵力は28980人、戦没者は17895名、生還者11085名、行方不明者の一人が由木さんだったのだ。由木さんの日本への思いはどのようなものだったのだろうかと浜さんは考える。中華料理店の名前が「赤龍飯店」だったことに思い当たる筆者、戦友たちへの追悼であったと考えた。由木さんは生前、ハーモニカでいつも「上を向いて歩こう」を吹いていたという。

アメリカシカゴ大学に留学して、アメリカ人がいつも何かを目指し、目的意識を常に持っていることに「疲れ」を感じた筆者、アジアにはこうした浜さんを包み込む母性的な温かさと深さがあったのであろう。
アジア的生活 (講談社文庫)

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