意思による楽観のための読書日記

日本兵捕虜は何をしゃべったか 山本武利 ****

東日本大震災後、日本に帰化したドナルド・キーン教授は太平洋戦争の時に、日本兵の書いた日記を翻訳する任務を受け持っていたと書いていた。米国は日本兵が日記を書かせられていることを知り、戦場に放置されている戦死死体から日記を始めとしたドキュメントを入手、分析してその後の情報分析を行っていた。捕虜は玉砕の強制、投降禁止から少なかったが、捕虜になった日本兵は当初口を開かないものの、食糧や医薬品を与えると、こうした厚遇を期待していなかっただけに逆に米国軍に協力的になってくる傾向があった。こうした捕虜からの情報はその後の戦闘で非常に役立った。米国では日系二世兵、白人でも日本語を学ぶ兵隊を特別に育成、ATISという組織として前線に送り込んだ。ドナルド・キーンはそのATISの一人だったのである。

筆者は、アメリカ国立公文書館(NARA)に残されている海軍資料からこうした文書資料を読みさがして日本人の日記、捕虜による軍事機密漏洩の実態をつかもうとした。1942年のガダルカナルから1945年の中国戦線の推移、そこでの日本軍からの軍事機密漏洩の経過が豊富な事例からたどれたという。日本本土では兵士から母や恋人への通信内容の検閲に神経を尖らしていた日本軍が、前線の戦死死体からの情報漏えいを見逃していたことは大きな失敗であると言える。そして米国軍はそこからATISが情報を得ていることを日本軍が察知することをおそれこうした活動を秘密にしていた。諜報戦、情報戦でも大敗していた、という筆者の分析である。

1942年ころは捕虜の数は少なかったが、ガダルカナル撤退から捕虜の数が急増した。情報将校は次のような手順を踏んだ。
1. 捕虜は当初は拷問、処刑を恐れているので、最初に口述される内容はでたらめである。
2. 待遇、食事が良いと感じると感謝の気持ちを抱くので、米国軍に協力の気持ちを抱き始める、この時の尋問内容は信頼できる。
3. 10日くらい経過すると親切な扱いに慣れてくるので尋問をはぐらかしたり無関心になるので、後方の収容所に送ればいい。

陸軍のほうが海軍よりも協力的、軍事施設の情報をよこさないと、無差別な攻撃をするので女性や子供が犠牲者になる、などと他人への迷惑をほのめかすと協力的になる、天皇を貶す言葉は絶対避けるべきである、捕虜への暴行は愚の骨頂である、日本軍に捕虜となったことを知らせるぞ、日本に送還するぞ、などという脅しは非常に有効である、などの日本兵の心理を知り尽くしたようなノウハウが蓄積されたという。母国人に捕虜となったことを知られたくないために外国への移住を希望する兵隊も非常に多かった。

アメリカ軍は玉砕的攻撃を初めて見た時も驚いたが、このように米国軍に協力的に転向する日本兵にも驚いた。これは自殺の意思の裏返しであった。平時の訓練で自主的な思考を排除されて来た兵隊たちは、軍隊に入って初めて受ける厚遇に驚き、そして協力的になるという一律的な硬直的行動をとった、という分析である。戦争前に米国の進んだ文明に憧れていた兵士も多く、実際に食糧、医薬品などを目にして、一気に進んだ文明に傾斜する、という戦後も見られた日本人一般にみられる傾向をすでに戦争中から見せていた。このことは戦後GHQによる占領政策に大いに生かされたという。日本兵の尋問で分かったリーダーへの信頼感を米国軍が分析した資料がある。

天皇 信頼感8% 不信感0%
政府リーダー 信頼感18% 不信感 5%
軍部リーダー 信頼感8% 不信感19%
マスコミ 信頼感16% 不信感 21%

天皇への不信感を抱く兵隊は居ないが、信頼感もそう高くはない。これは戦争教育で天皇崇拝を否応なく叩きこまれた結果であろう。

政府リーダーへの信頼感は意外に高いが軍部リーダーへの不信感は信頼感を上回る、これが米軍による分析であり、これに従って尋問も進められた。さらに戦後の占領政策もこの情報に従って進められたために、天皇は象徴とする、という方針がマッカーサー元帥によっても取られたという。戦後の日本人が進んで占領軍に情報提供したことは想定済みであった。また、戦争の責任を軍部、財閥にかぶせて、占領に反対する勢力である旧権力者や左翼の活動を押さえ込んだという。

「日本文化は罪ではなく恥の文化である」とした「菊と刀」の分析の元ネタはこうした日本人捕虜への尋問であった。日本人は儒教意識が強い家族制度や学校教育、終身雇用制度によって国家、地域、職場、家庭などに縛り付けられている。その上に教練、戦闘などで軍隊に隷属させられ、戦陣訓や軍人勅諭で武道精神、集団規範が重くのしかかり、異端を許さない均質社会のイデオロギーが日本人全体に行き渡っていた、という分析であった。アメリカは占領後、こうした日本社会の改造には手を付けなかった。アメリカの占領、その後のアメリカの政策遂行に好都合だったからである。常にアメリカに追いつくことを行動目標にすることで日本人に敗戦という国辱をわすれさせ、一億総捕虜の状態から脱却させんとした、という筆者の分析である。1980年代に日本経済がバブル形成をした後にも、日本企業買収、経営者のヘッドハンティングなどでアメリカ企業の支援を支えていたのがこうした日本研究の成果だった、というのだ。こうした認識を持って、日本の占領状態を脱することが米軍の捕虜である状態を脱することにつながる、という筆者の主張である。

うーん、そこまで行くか、という主張であるが、何か権威があるものに頼りたい、という日本人の意識は「漢の倭の奴の国王」、仏教伝来の昔からあった。唐の国伝来の曼荼羅による真言密教、以仁王の宣旨による頼朝挙兵、「先の副将軍、水戸光圀公なるぞ」、錦の御旗、などなどである。明治維新以降、日本政府は世界の一流国と認められたい、ということから捕虜を厚遇したが、日清日露、第一次大戦を経て、一流国になれたと慢心したために、その後捕虜の扱いを決めたジュネーブ条約を批准しなかった、という説もある。日本人は千数百年の歴史の中で、「慢心」と「恥」を行き来しているようにも思える。内田樹は「日本辺境論」を書いたが、日本はいまだ「辺境」なのであろうか。
日本兵捕虜は何をしゃべったか (文春新書)
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