日本書紀は、その内容が史実かどうかが疑われる箇所があり、特に初代神武から7代までは実在が疑われて、5世紀ころまでの大王についても実在と在位年が疑われているところは定説。7世紀中盤の大事件、乙巳の変あたりには、特に疑問が多い。蘇我氏を滅ぼして推進されたとされる大化の改新で行われた政治改革は、その多くが推古朝以降、蘇我氏を中心とした政権が推進してきた内容と同じなのはなぜ。乙巳の変後に中大兄はなぜすぐに即位しなかったのか。万葉集で有名な額田女王と大海人皇子が蒲生の野で遊んだあとにお互いを詠んだ句は、天智の人妻となっているはずの額田女王が、元の夫である大海人皇子を、中大兄と大勢の人々がいる前で大ぴらに互いの気持ちを表現したと思われる。なぜこんなことが許されたのか。皇太子の最有力候補だった古人大兄はなぜ中大兄にいともたやすく殺されてしまったのか。
本書では、日本書紀のあとに編集されたとされる万葉集と日本書紀の内容を突合・検証することで、乙巳の変以降の記述に疑念を呈し、題名通りの仮説を提示する内容の上下巻、2013年10月発刊。筆者は毎日新聞記者を経てサンデー毎日編集委員、PC倶楽部編集長、DB部長を歴任。著書に「聖徳太子と日本書紀の謎」。上巻、序章では、万葉集の成り立ちを述べ、1、2章では、万葉集1巻7番歌~21番歌を詳細に分析、中大兄・天智天皇の実在を検証。日本書紀の記述より、天智天皇は奈良盆地に存在した大和政権における皇子ではなく、九州筑紫政権にいて、中臣鎌子と共謀して蘇我入鹿を誅殺し、その後九州より東征、近江朝を開いたことを示そうとしている。
万葉集は素朴な人々や貴族たちも含めた国民的歌集とされるが、よくよく分析すれば、不比等が編纂し歴史を改竄した部分を告発するような内容が読み取れる書でもあるという主張。全20巻中、巻1と2は最初に編纂され、内容に関しては現在の「現万葉集」と共に「先行万葉集」が存在。同時に、巻1、2は日本書紀と連動しているとする。特に巻1の最初の1番ー21番歌に注目。歌の前の解説たる題詞では、本来は立太子したとされている中大兄に皇子等の肩書きが付かず、天皇の歌なら御製歌、皇子や皇后等については御歌と表現されるのが万葉集の硬いルールであるにもかかわらず、中大兄の歌は単なる「歌」として解説していることが示される。日本書紀で改竄された歴史に関し、中大兄・天智は畿内にあった大和朝廷の系譜にないことを、現万葉集が告発しているという。藤原氏に対抗する長屋王らのグループによって、「先行万葉集」が「現万葉集」に書き換えられた結果、現万葉集をよく読めば日本書紀の内容に矛盾があり、この長屋王グループが示す歴史観を本書では「万葉史観」と呼ぶ。
本書では万葉集を詳細に分析し、中大兄は大和朝廷における皇子ではなく、九州筑紫から東征したという仮説を提示。書紀における中大兄に関する記述は、皇極3年と4年(大化元年)の2年間だけで、「中大兄」に皇子とは書かれていない。皇極4年の乙巳の変についての記事を考察、中大兄は中臣鎌子と謀って蘇我入鹿を誅殺、しかし大和盆地に権力基盤がないため筑紫、難波に逃げ帰った、とする。その理由として、書紀によれば皇極朝の本来の皇太子は古人大兄。書紀の記述によれば、蘇我入鹿が殺された大極殿の中に皇極や古人大兄、朝鮮半島からの客人たちは居たが、中大兄は外で待ち伏せていて中に居なかった。入鹿殺害後に古人大兄は自分の宮に走って入ったが、中大兄は自分の宮ではなく法興寺に入ったことなどを上げた。
皇極朝は蘇我氏にサポートされて成立してきた政権であり、乙巳の変の直後には皇太子候補の一人であった中大兄に禅譲するならストーリーとしてはスムーズだが、軽皇子に譲位、孝徳朝となる。であれば孝徳朝は中大兄と中臣鎌子に支持されている政権はずにもかかわらず、実施している政策や内容を見ると、蘇我氏がそれまで築いてきた政策や方法をそのまま採用しており、蘇我氏が使った冠位を平気で使っている。孝徳朝の政治システムは蘇我氏が推進した推古朝と皇極朝のものであることを指摘、蘇我氏の影響力が強かったことを解説。書紀では中大兄を皇太子と記述しているが、孝徳朝では中大兄の影響は感じられないと分析。日本書紀では、藤原不比等が、皇極紀皇極4年の記述で「中大兄を皇太子とす」と書き換え、その後の日本書紀の内容において、孝徳朝から斉明朝までの「皇太子」は中大兄であるかのように読めるという改竄を施した、とする。
本書では万葉集を詳細に分析し、中大兄は大和朝廷における皇子ではなく、九州筑紫から東征したという仮説を提示。書紀における中大兄に関する記述は、皇極3年と4年(大化元年)の2年間だけで、「中大兄」に皇子とは書かれていない。皇極4年の乙巳の変についての記事を考察、中大兄は中臣鎌子と謀って蘇我入鹿を誅殺、しかし大和盆地に権力基盤がないため筑紫、難波に逃げ帰った、とする。その理由として、書紀によれば皇極朝の本来の皇太子は古人大兄。書紀の記述によれば、蘇我入鹿が殺された大極殿の中に皇極や古人大兄、朝鮮半島からの客人たちは居たが、中大兄は外で待ち伏せていて中に居なかった。入鹿殺害後に古人大兄は自分の宮に走って入ったが、中大兄は自分の宮ではなく法興寺に入ったことなどを上げた。
皇極朝は蘇我氏にサポートされて成立してきた政権であり、乙巳の変の直後には皇太子候補の一人であった中大兄に禅譲するならストーリーとしてはスムーズだが、軽皇子に譲位、孝徳朝となる。であれば孝徳朝は中大兄と中臣鎌子に支持されている政権はずにもかかわらず、実施している政策や内容を見ると、蘇我氏がそれまで築いてきた政策や方法をそのまま採用しており、蘇我氏が使った冠位を平気で使っている。孝徳朝の政治システムは蘇我氏が推進した推古朝と皇極朝のものであることを指摘、蘇我氏の影響力が強かったことを解説。書紀では中大兄を皇太子と記述しているが、孝徳朝では中大兄の影響は感じられないと分析。日本書紀では、藤原不比等が、皇極紀皇極4年の記述で「中大兄を皇太子とす」と書き換え、その後の日本書紀の内容において、孝徳朝から斉明朝までの「皇太子」は中大兄であるかのように読めるという改竄を施した、とする。
そして書紀にある、中大兄による古人大兄殺害は作り事だとし、大海人と古人大兄は同一人物とする。これは、古人大兄の謀反を自首して知らせたとされる笠臣志太留(垂)について、百年後の続日本紀の記事の内容を検討すると、皇太子候補者を讒言したにしては、報奨が少なすぎること。古人大兄の家族は殺害されたはずなのにその娘、倭姫が天智の皇后になっていることから、古人大兄一族殺害は日本書紀の捏造だとする。上巻はここまで。
下巻では、斉明朝における皇太子、称制天智についての分析、長屋王と万葉史観について分析する。
下巻では、斉明朝における皇太子、称制天智についての分析、長屋王と万葉史観について分析する。