タイトルから受ける印象とは逆の内容で、西洋の基準で発展してきた科学や定義などを基本として日本の歴史を解釈することには無理があるので、日本が置かれてきた環境や特殊事情を勘案した歴史認識を保つ必要がある、という主張。
縄文文明は、1万5千年も前に土器を作り出していて、それは四大文明と言われる地域でも見られないほどで、世界でも稀に見ること。文明、という定義が王権の成立と農耕であるというのは、西洋の基準で考えられたこと。日本列島は大陸と陸続きの時期に何波にもわたり人類が移り住んだが、ちょうど1万2千年前頃に陸橋が途切れ、対馬海流が日本海に入り込んで列島の気候が大きく温暖化、広葉樹林が広がった後に、少し寒冷化が進んで西日本には照葉樹林帯が広がった。
その時代にチグリス・ユーフラテス流域の砂漠での食料確保の必要性に迫られた人類が、灌漑や農耕を開発したことと比べると、日本列島には栗や木の実、食用の魚類、貝類、鹿やイノシシなどの動物が豊富にいたため、狩猟生活を長期に安定して続けることができた。灌漑や農耕のように大規模集団生活の必要性がなく、陸続きの大陸がなくなったため、種族同士の闘いも必要性が少なかった。そのため、強力な広域をまたがる王権の成立もその必要性が低かった。文明の進展は、採集→栽培→灌漑→都市文明→国家形成という画一的な基準には当てはめにくいのが日本列島の縄文時代の文化である。
日本の縄文式土器は細石刃や荒屋型彫器とともに出土する。石器時代と縄文時代は連続性があり、石器時代を担った種族も何度にもまたがり列島にわたったはずだが、その後陸橋が途切れ、渡来は続いたが大規模移動とはならず、1万年に亘る時代を連続性を持って文明が紡がれた。同様のことは縄文から弥生への移行でも見られた。大陸からの少数の断続的な移住者はジャポニカ米の稲作を九州にもたらし、数百年の年月を経て日本列島に西から東、東北にもたらした。
日本列島には、東南アジア、大陸、サハリンなどにルーツを持つ縄文人が先住していたところに、稲作を持った大陸からの移住者が移住してきた。人や稲のDNA分析からもそれは解釈できる。日本列島には縄文人の子孫であるアイヌ・琉球人と、弥生文化をもたらした本土日本人からなるという「二重構造モデル」が提唱されている。この提唱者の前提とした渡来者人口の見積もりは7世紀の初めまでの千年間に150万人となっていて、当時の縄文系住民の8.6倍にもなるという。これはその前提と結論にも疑わしい部分があるというのが筆者の主張。
縄文人と弥生人が混在して暮らしたとすれば、その言語も相互作用があるはず。琉球語と日本語は親戚語だが、アイヌ語は日本語とはほとんど類似点がなく、朝鮮語も日本語とは別体系の言語。渡来人が従来の住民の8.6倍も多かったのなら、言語面でも従来語を圧倒していたはずだという。また人口見積もりの基準を発見された遺跡の数と奈良時代の戸籍から割り出しており、見つかっていない遺跡、戸籍に登録されていないの数を考慮していないことは大問題だという。
縄文人や弥生人という人種がいたのではない。その文明は連続しており、従来からの列島住民が、断続的に渡来してきた人々と混在して暮らしながら紡ぎあげてきた文明であることを考慮する必要がある。本書内容は以上。
従来から常識と言われてきたことを疑えという主張で、一読の価値はあると思うが、主張の裏付けという意味ではあまりに脆弱な部分があることは否めない。