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意思による楽観のための読書日記

横井小楠 維新の青写真を描いた男 徳永洋 ****

福井の松平春嶽に師と仰がれ重用されて、橋本左内、由利公正や坂本龍馬、吉田松陰、勝海舟にもその思想に大いなる影響を与えた男が横井小楠。その割には、ドラマで取り上げられることが少なく、歴史の教科書などでも紹介されることが少ないのはなぜだろうか。

熊本藩士の次男として1809年生まれ、熊本藩の藩校時習館に学び、藩命で江戸に遊学、藤田東湖、川路聖謨と交友、熊本に戻り実学党を結成した。学問は書物を読んで学ぶだけでなく、それを社会に役立てなければ意味がないという主張で、酒癖が悪く、藩の保守層とは対立したため、その後も保守的な肥後の国、藩内では取り立てられることがない。

その後、諸国を訪問した中で越後藩主春嶽は彼の進んだ思想に着目、藩政治顧問となる。1860年に著した「国是三論」では開国通商、殖産興業、富国強兵を提唱、春嶽が幕府の政治総裁職に就くとブレーンとして幕政改革や公武合体を推進した。しかしこの頃、女性を交えた友人三人との酒宴中、刺客に襲われた際、友人を置いて一人逃れ、十町ほど離れた福井藩邸に戻り応援を連れて戻ったが刺客はおらず、友人が殺される結果となった。これが「士道忘却事件」、武士にあるまじき行いだというわけである。これが熊本藩から藩士の恥とみなされ、呼び戻されて熊本で蟄居処分となる。しかし、その後も数多くの志士たちの訪問を受け、明治新政府では参与となり、岩倉具視たちのブレーンとなるも、明治二年に自宅であった京都丸太町寺町にある下御霊神社付近で刺殺されてしまう。

幕末の小楠の主張は、「徳川家私利私欲のための政治しか行わない幕府を廃止、公武合体で各藩から有能な人材を登用、議会を開き、日本国全体で朝廷による統治を進める」というもので、明治新政府の理想と一致する。富国強兵を進めるにあたっては、単に西洋文明を輸入するだけではなく、中国堯舜時代の仁義と徳のある治世を実現することが肝要と主張した。

小楠は1862年に国是十二条を提出しているが、龍馬の船中八策はこれがそのままベースとなっている。また、小楠の弟子でもあった由利公正の公案した五箇条の御誓文は国是十二条を集約したものである。明治新政府ではこの小楠を議政官の参与として採用。由利公正、小松帯刀、木戸孝允、後藤象二郎、大久保利通、副島種臣ら9名とともに任じられた参与は四位の位を授けられた。列藩在住の中では由利公正、木戸孝允と横井小楠が選ばれており、大抜擢であった。

こうした大出世は大いに妬まれ、キリスト教を日本に広めようとしているという有りもしない噂を信じた若者たちに刺殺されてしまう。黒幕は公卿で刑法官知事であった大原重徳をリーダーにいただく勢力だった。小楠を慕った多くの弟子たちは、その後も活躍。殖産興業や教育に大いなる影響を与え続けた。本書内容は以上。

幕末という時代の不幸と幸運が積み重なるような生涯だと感じる。保守的で藩内事情を優先する考え方が大勢であった熊本藩に生まれた不幸と、そうした中でも藩校で抜きん出た才能を発揮できた幸運があった。諸国遊学の際、松平春嶽に見いだされた幸運と、その藩は親藩であり幕府を守ることを運命づけられた藩だった不幸が、幕末における活躍を阻害した。多くの弟子たちに慕われた幸運と酒癖が悪く、酒の上での失敗を重ねてしまう不幸。新政府で重用された幸運とあまりの幸運が妬まれた不幸。人は生まれ出る時代や場所を選べないが、その後の人生はその人の選択の結果でもある。結果的に明治新政府の政策と弟子たちの活躍に自分の理想が生かされたこと、それこそが横井小楠の幸運だったと思う。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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