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意思による楽観のための読書日記

薩摩の密偵 桐野利秋 「人斬り半次郎」の真実 桐野作人 ***

「人斬り半次郎」の異名は池波正太郎の小説から有名になったと言われるが、幕末には中村半次郎、維新後は桐野利秋は幕末から近代史の西南戦争あたりで目にする名前。密偵時代には人殺しもしたが、その後西郷隆盛の側近として征韓論に与し、西郷とともに西南戦争を指揮して死んだ。西郷隆盛が征韓論に拘った理由としては、維新後の旧士族への待遇不満を背景にした新政府への不満を対外対応で逸したいこと、そして日本人への反感をあらわにしていた朝鮮民族への反感があったという。桐野利秋はそうした西郷の側近として薩摩の旧士族をとりまとめ率いて、西南戦争で最後を遂げた、とされている。

江戸時代には、各藩の武士階級には上士と下士があり、大きな身分差があったことは知られている。薩摩藩でも鹿児島城下に主に暮らす城下士、地方の郷に居住する武士団である郷士、そして城下士の家来である私領士がいて、人数比で1:6:3。西郷、大久保利通、桐野利秋は城下士である。明治維新までは、城下士のなかでも上士にあたる小松帯刀に率いられた城下士の下士、西郷、大久保が目立ったが、維新後は篠原国幹、村田新八、伊地知正治、大山綱良、海江田信義、そして桐野利秋らが活躍する。それが暗転するのが岩倉使節団組と留守組に分かれて、征韓論で対立する明治維新後。廃藩置県後に秩禄処分があり、士族の名前だけが残り収入と仕事がなくなった旧士族の不満は高まる。薩摩では、維新政府に入って政府側になる勢力と、西郷とともに下野し鹿児島に帰った勢力が対立、西南戦争に発展するが、その実質的なリーダーとなったのが桐野利秋だった。

桐野利秋の先祖は江戸時代のはじめにお家騒動に巻き込まれ、家老殺しの実行犯となり、桐野から中村へと変名を余儀なくされた。幕末期には、その密偵としての力量が認められ、薩長同盟成立前後に長州藩勢力への潜入を命じられた。その過程で、長州の木戸孝允や井上馨、山県有朋、品川弥二郎、黒田清隆らだけでなく、土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎らとも知り合ったことが後に人脈として生きてくる。戊辰戦争では、そのきっかけとなった薩摩藩邸焼き討ち事件があり、倒幕への戦争で西郷の背中を押したのが黒田清隆と桐野利秋だった。そして戊辰戦争となり、そこで活躍した桐野の従兄弟である別府晋介とともに新政府のなかで取り立てられ、西郷が大将となり、桐野は陸軍少将、別府は少佐となる。その時点から元の桐野の姓を名乗り始めた。

明治維新後の新政府は近隣諸国との問題を抱えていた。ロシアとの樺太での領土紛争、台湾での琉球民殺害、朝鮮国との国交問題である。これらの問題はその後、日清戦争、日露戦争、朝鮮半島併合、日中戦争と武力による解決、そして対英米戦争へと進むことになる。その朝鮮との問題で起きたのが征韓論であり、欧米の近代文明の力を自分の目で見てきた大久保、木戸、岩倉らと、留守うを守っていた西郷らとの間に外交判断の違いを生むことになる。しかしその西郷にしても、大久保らとの議論で、新政府が本来取るべき道を理解していたことが伺われるが、桐野らの薩摩における旧士族らの新政府への不満を抑えきれなかった。

桐野は戊辰戦争での命知らずの大活躍、その後の征韓論での主張で、鹿児島における勢力のリーダー的存在となっていた。鹿児島に帰った旧士族たちは西郷、桐野を中心に私学校を設立、勢力を温めていた。しかし西郷は、自らが担ぎ上げられることを警戒し、鹿児島を離れる。西郷の右腕となっていた桐野の強烈な存在感が西郷の苦悩を極大化させたことは間違いない。西南戦争の切っ掛けとなった火薬庫襲撃事件では、西郷、桐野ともに、襲撃した私学校党メンバーに自重を促している。私学校党の実質的リーダは桐野の従兄弟別府晋介で、政府密偵による西郷暗殺計画があることを理由に、桐野、そして西郷は西南戦争のリーダーに担ぎ上げられた。しかしその桐野、新政府の戦力と鹿児島旧士族勢力の力を客観的に分析することができていなかった。西南戦争直前に起きていた佐賀の乱、秋月騒動、萩の乱などでの政府軍の体たらくで、熊本鎮台の防御力を見くびっていた。それが西南戦争初戦での熊本城攻防戦の大苦戦につながる。西郷も陸軍大臣であるはずの自分が進めば、誰もが邪魔をしない、賛同してくれると思いこんでいたフシがある。

西南戦争を引き起こしたのは誰だという議論、外形的には西郷、そしてリーダーは桐野だったとされるが、実質的な首謀者は別府晋介、そして私学校党の高照郡平、辺見十郎太だったという。西南戦争直前に決別挨拶に西郷が英国からの友人で医師のウィリスを訪ねたときには、西郷の挙動を監視するために私学校党のメンバー20人が帯同してきたという。西郷でさえもその挙動が疑われていたということ。その西郷や篠原国幹、桐野、村田新八、県令の大山綱良らを巻き込むために使われたのが「西郷暗殺計画」であり、計画は私学校党勢力によるでっち上げだったとする説が有力。

40歳で死んだ桐野利秋、本来は新政府への反逆者で逆賊のはずだが、当時の世間の評価は逆。西郷とともに同情的に扱われ歌舞伎演目にもなった。しかし鹿児島の市街を灰燼に帰し、宮崎、熊本に多大な人的、物的被害を与えたことの責任は重い。軍隊勢力の科学的分析や、理性的な情勢判断、客観的な国際状況判断ができなかったことを反省する必要があるはず。力による外交問題解決は、その後の日本政府の戦争と武力による国際問題解決とその失敗につながっていく。本書内容は以上。

この当時の桐野、西郷のメンタリティは、日中戦争と太平洋戦争へと突き進む日本陸軍の考え方にも通じる気がする。戦いを引き起こしたい人物が、自分により有利な想定をしながら戦況分析をする、これは今でも変わらないのかもしれない。本書筆者は桐野作人で、ご子孫かと思ったがそうではないという。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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