昭和初期に、陸軍の中での勢力争いがあり、合理的な戦略立案と実行を企図する統制派、天皇への敬慕と熱き愛国心を重視する皇道派に分かれていた。永田鉄山は統制派の首魁であり、皇道派から敵視され、昭和10年8月12日、狂信的愛国者の相沢中佐に軍務局長在任時、執務室内で斬殺された。同僚や上司から評価され部下からも慕われていたという人物評価から、殺されなければ東條に代わって陸軍大臣や首相にもなっていたと評価される逸材だった。
永田鉄山は病院長の息子として誕生、陸軍士官学校、陸大を次席で卒業、教育総監付きの「軍隊教育令」を作成する仕事に携わる。首席は士官学校でひとつ上の梅津美治郎、いずれも陸軍のエリートである。教育令を作る難しさは、軍の長老の意思をいかに統一するかであったが、永田は忍耐強くこの任にあたり、意思を統一しただけではなく、口述した意味以上の含蓄をも汲み取ってくれたと長老たちに高く評価された。当時の長老とは、山縣有朋、大山巌など、幕末から日清・日露戦争の修羅場をくぐり抜けてきた猛者であり頑固者たち。年若い永田は彼らの間をうまく取り持ち、可愛がられていたという。
この後、第一次大戦直前にドイツ駐在を命じられ、国を挙げての総力戦であった世界大戦を経験。戦場と銃後が一体とならなければ戦争継続さえ難しくなる世界規模の戦争に於いては、国家総力を挙げての体制が必要であることを痛感した。これがその後の永田の外交と戦争に対する信念となり、皇道派の情熱と「大和魂」、勢いによる戦争推進論と真っ向からぶつかることになる。軍国主義の権化であったドイツ軍が、国力では勝る米英に敗北したのは、短期決戦での勝利を求めたドイツに対し、英米の平時における国防だけではない国力増強準備の比較論であると確信した。また、石油備蓄や工業力増大がまずは重要であり、第一次大戦後のワシントンとロンドン軍縮会議において、対米英戦艦削減条約に臨んで、兵力を一時的に削減してでも平時における経済力、生産力増大によりトータルとしての国力増強を図るべきと考えた。これがその後の統制派の主たる主張となる。
英米との戦争はいずれは不可避となる、そしてその戦争は総力戦となるとの信念を持った永田は志を同じくする当時少佐だった陸軍士官学校同期の小畑敏四郎、岡村寧次とドイツのバーデン・バーデンで会合を持った。長州閥排除を約し、統帥権を振りかざして国民の意識と乖離し始めている陸軍を変えて、総動員体制を整え軍備を改善していこうと話し合った。しかし、このあと小畑敏四郎と永田は、早期対ソ開戦を主張した小畑と慎重論の永田は袂を分かち、統制派と皇道派に分かれて対立することになる。
皇道派が担いだ首脳が荒木貞夫と真崎甚三郎。ロンドン軍縮会議では対米英比率を政府が勝手に決めてきた統帥権干犯であると皇道派が問題視。荒木が陸軍大臣となっていた間は皇道派が優勢となるが、体調不良で荒木が退任、そして永田が軍務局長に就任。皇道派と統制派の対立がますます激化するに連れ、皇道派の中堅将校たちは先鋭化、それを抑える役割は軍務局長の永田が担うこととなり、皇道派中堅将校の矛先は永田に集中することとなる。そして皇道派は相沢事件、226事件を経て中枢部から退けられるが、永田亡き後の統制派を率いたのが東條英機。しかしこのときには英米蘭による日本包囲網は、日本の向かう方向は限りなく限定され、太平洋戦争に向かって進む軍部の勢いを止める勢力はいなくなってしまう。
永田鉄山が殺されていなければ、その後の日本はどうなったか、それは分からないし、一人の人間がいくら偉大で影響力があったからと言って、大きな歴史の流れを変えるまでには至らない、というのが結論。しかし、開戦の判断を遅らせることや、日米交渉の長期化くらいは可能性がある。昭和天皇が永田鉄山のことを、相沢事件前に知っていたのかどうかも分からないが、きっと意見は合ったのだろうというのが筆者の観測。陸軍首脳と天皇の意思疎通がうまく行けば、と想像は広がるが、その先は考えても詮無いこと。本書内容は以上。