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意思による楽観のための読書日記

日清戦争 近代日本初の対外戦争の実像 大谷正 ***

日清戦争の当時、日本も清も東アジアにおいては強国として存在はしていたものの近代的国家とは言えない状態。両国ともに19世紀中期に西欧列強各国が東アジアに持ち込んだ西欧的外交関係に取り込まれて不平等条約を締結させられていた。同時に中国は伝統的に自国を中心とする中華圏のなかで朝鮮との朝貢関係を維持し、日清戦争の原因となる朝鮮を巡る国際情勢では、この2つの国際関係が絡み合っていた。

朝鮮問題を契機として戦争を仕掛けたのは日本サイドで、清サイドは李鴻章が北洋通商大臣として戦争回避に努めた。東アジアに権益を持つ欧米列強のイギリス、ロシアは戦争回避のための調停に乗り出したが日本は無理を重ねて開戦に踏み切る。日本としては出遅れたが今は開国した国民国家として、西欧諸国と同様の植民地を東アジアに築きたいという欲望があり、その手始めが朝鮮、そして清であった。この考え方は信長、秀吉が具体化し、江戸時代後期より国学、水戸学などの中でも唱えられ、吉田松陰や橋本左内、そしてその後広がる尊皇攘夷運動の主張における一つの柱となっていく。この思いは明治維新後には西郷隆盛を中心とした征韓論となり、その後も日露戦争、第一次大戦後も引きずり、結果として対中戦争と対英米戦争へと続いていくことになる。

この時期の朝鮮は李朝の末期、幼い高宋の実父大院君が実権を握っていたが、高宋が成人するとその王妃閔妃が影響力を増していた。朝鮮国内では開化政策と保守的な鎖国的政策が交錯し、1882年7月には閔氏政権の進める開化政策に反対する壬午軍乱が発生、高宋と閔妃は排斥され大院君が再び権力を掌握、開化政策を白紙化する。公使が逃げ帰ることになった日本、そして清も日本も軍艦を朝鮮に派遣するが、清の斡旋により大院君が再び高宋に権力を移譲。軍事力でまさる清による朝鮮への影響力が増す結果となる。

1884年には清仏戦争があり、清は頼りにならないと判断した朝鮮高宋は日本に接近。日本も清による朝鮮への影響力を低下させるため、親日派へのテコ入れを強化する。朝鮮における開化政策推進派の金玉均らは日本の軍隊の力を背景にしたクーデターを引き起こし、国王高宋を推戴して新政権を樹立したため、清の袁世凱は清軍を派遣、日本軍と交戦しこれを破る。クーデターは失敗し、金玉均らは日本に逃れた、これが甲申政変と呼ばれる。

日本では朝鮮に対する施策として2つの勢力が争っていた。一つは伊藤博文や井上馨ら長州派による、平和主義による清による朝鮮支配の阻止。もう一つは対清開戦を恐れず強硬方針を取るべしとする強硬派で、高島鞆之助、樺山資紀ら陸海軍内の薩摩派である。1885年には平和主義による調停を望むイギリスの仲介があり、日本と清は天津条約を締結、朝鮮への派兵権を保留し軍隊は一旦撤退することで合意した。一方、ロシアも朝鮮への権益に虎視眈々であり、この天津条約の危うい平衡状態が日清戦争まで続くことになる。

日本と中国ではこの時代、近代軍隊の増強が進み、一歩進んだ清を日本が追いかける図式が続いていた。日本では1873年に始められた徴兵制により近代軍隊が誕生、1877年の西南戦争以降は対外的な軍事力強化に大きく舵を切っていた。朝鮮における清との交戦体験で自国軍隊の弱さを痛感した日本政府は、参謀本部長で参議でもあった山縣有朋や大山巌陸軍卿と川村純義海軍卿が陸海軍強化を進めた。

1860年代から朝鮮半島で力を維持してきた東学党の地方組織は1894年になり官吏による苛斂誅求に対して蜂起。騒乱を収めるという名目で日本は軍隊を派兵、それに対応して清も軍隊を朝鮮に送った。日本では伊藤博文が清との協調、陸奥外相が強硬論を唱え対立。清サイドでも皇帝を中心とする主戦論と李鴻章を中心とした戦争回避論が対立していた。どうしても開戦に持ち込みたい陸奥宗光は朝鮮王宮を包囲攻撃し朝鮮国王を虜にする作戦を実施。これを契機として日清戦争は始まった。戦争は清サイドの稚拙なオペレーションもあり旅順陥落により大勢は決まったが、その後も朝鮮半島では日本政府に対する反抗は継続。1995年4月締結の下関条約で割譲を決めたはずの台湾に於いても、戦後の占領部隊と台湾における漢民族の間で1896年4月頃までは小競り合いは継続する。つまり日清戦争は朝鮮との戦争と清との戦争、そして台湾の漢族系住民との戦争という3つの戦いから構成されていたことになる。

日本サイドから見た日清戦争の目的は朝鮮と清における権益強化だったはずだが、戦争後は対日感情が極めて悪化し、三国干渉と閔妃殺害事件を経て、朝鮮半島に反日親露派政権が誕生。清はロシアに接近し日本への対抗措置として鉄道敷設権、旅順と大連租借権、南満州鉄道敷設権をロシアに与えた。つまり、日清戦争は日本にとっては戦争と外交により、予想外の結果をもたらしたと言える。

国の命運を賭けたはずの戦争での戦時外交の拙劣さは陸奥外相や条約改定を急ぐ日本政府の経験不足が原因であり、世界情勢を全く知らないまま戦争を後押ししたマスコミや大衆の責任も重い。その後の日本はこの反省を踏まえ、日英同盟に進むが、結局はロシアとの無理な開戦に再び突き進んでしまう。本書内容は以上。

国家間の戦争の帰趨は、当事国の国力の比較もさることながら、その時の国際関係が強く影響することは当然のこと。これはその後の日露戦争や第一次世界大戦、第二次大戦、そして現在の露によるウクライナ侵攻にも当てはまるはず。「歴史を俯瞰する外交」とはこういう近代史とその結末をまずは理解した上で、国の行く末を見定めて議論することが重要。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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